末安美保子展「もうひとつの風景」
私は風景が好きである。自然の美に促されて創造したもうひとつの風景を、私は抽象的なかたちに描く。見えるもの、聞こえるもの、感じることの一瞬をとどめようと、キャンバスに向かう行為は愛なのかもしれない。
会期:2011年4月20日~4月30日
会場:ギャラリーおいし 福岡市中央区天神 2-9-212
TEL 092-721-6013 FAX 092-752-1066
営業時間 11:00~19:00
来安美保子 佐賀県出身
1969 津留崎晴男に師事 1975九州女子大学文学部卒 創元会会員
1988 渡仏以来パリ在住 アカデミー・グランド・ショミヱールでデッデン、クロッキーを学ぶ。 個展、グループ展は、国内外問わず多数。以下、近年の展覧会を記す。
個展 /
2006 エスパースBertin Poiree、パリ 2007 ギャラリー開、神戸
2009 墨と水彩によるデッサン展、サン・マンデ市庁舎、フランス
グループ展 /
2003 花とアート・二人展、佐賀市歴史民族館・旧三省銀行、佐賀
2004 21回現代美術展、サン・マンデ市主催、フランス
2010 東洋と西洋の狭間に生きるアートフォーラムJARFO、京都
歌人 /
短歌結社「創作」所属、1994より作歌再開。歌人。「欧州短歌」終刊まで参加"(2004)、現往短歌季刊誌「世界樹」に寄稿。
2007.12 パリ市のアーティストアトリエを貸与される。
伺い知れないと思い外へ出ることにした。空は重々しくどんよりとしていて、いつもの装いである。風が冷たいと感じる合間に、左腕にあるカーデガンに腕を通す。足下で弾けるような音がして、風に騒ぐ液体はこれから起きるであろうことがらの端緒に過ぎないのであった。頭上にある無骨な黒い冊のような形を抱えた灰色の塊は苔むした岩のようでもあり雲にも例えられる。灰色が寄り添い薄墨は輪を描き消えて行く。塊は光を放ち燃えつき、その残光は回りを照らし幾つもの視界はおかまいなしに活写するのである。
末安美保子油彩展について思うとすれば、対象の絵そのものよりも画家もまた感じていたかのような仮の遠回りの描写になるようである。画布の中の形は揺らぎ色彩は自立することを望むのである。「滴々」と題された絵は、主の無い空を思わせる。浅い夢を懸命に思い出そうとするかのように、現実の画布に落とす絵具は似ても似つかないに違いない。一筆落とす度に夢は消える。この黄色は、この緑はこの灰色は不用意に現われ、形は拭い難い現実の一端であるだろう。抽象画とは、変えようの無い現実を画家自身に問うという過程の中で、見る側に精神の奥深く入り込むことの意味を問いかけるのである。
※右下はギャラリーおいし。絵などの個展が掛けられていない場合は、こだわりの品のブティックとしても開かれている。
新天町商店街創立時に同場所に開店した「シューズショップカシマヤ」が前身。
昭和49年1月 同店2階に画廊を開館。
昭和56年に3階、昭和57年に4階を増設。
昭和62年3月に「カシマヤ」をクローズし、全館が「ギャラリーおいし」となる。
「過去から来た女。」監督ソフィー・マルソー
九州日仏学館、LOVE FM共催 フランス映画上映会
Mardi ćinema vol.1 La Disparue de Deauville

フランス映画が見たいと取り立てて言わなくとも、九州の田舎の場末の映画館にも普通にフランス語や英語、ドイツ語、イタリヤ語、スペイン語の映画が必ず掛かっていた。現代の映画の流通が、どのようになっているかは分からないが、半世紀近く前とは言え、九州南部の片田舎と言えども世界の情報は手に入れることができたのである。不思議なもので幼い目にも、それらの映画の言わんとすることは苦労もせずに共有できた。与太で言えば、現代の方が、ボーダレスとやらで糞面白くも何ともないと言えるだろう。
マルディ・シネマとは、フランス語で「映画の火曜日」という意味である。隠し味でもあるのか。九州日仏学館は LOVE FM との共催で、毎月一度、西鉄ホールのスクリーンで、福岡未公開のフランス映画の上映会を開催する。マルディ・シネマのオープニングとして、フランス人女優ソフィー・マルソーが出演する2作品を上映。そのうちの一本が、彼女自らが監督した作品「過去から来た女」である。そう言えば、廃人のような劇中の刑事が、今日は何曜日だ、火曜日か、などと忙しなく煙草を吸いながら言う台詞があったような気がする。フランス映画はしゃれている。お国柄の劇中の遊びが、何なのかを理解できていないわれわれにはフランス映画は難解かも知れない。
30年前に謎の死を遂げたかつての有名女優 ヴィクトリア。ホテル・ノルマンディーで起こった失踪事件を調べる警察官であるジャックの前に現れた謎の女は、ヴィクトリアの幻想なのだろうか。かつてこの女性に何が起こったのか。なぜ、彼女はジャックを選んだのか。この豪華なホテルの裏側にはどんな秘密が隠されているのか。女優であるソフィー・ マルソーの監督作品である。政府は、2003年に彼女に文化勲章を授けた。棺桶の際で勲章を授けるどこかの国とはちがう、色気のある国なのだろう。(2007年、100分)※
ソフィー・マルソー(Sophie Marceau、1966年11月17日 - )はフランス・パリ出身の女優。13歳の時にオーディションで数百人の中から選ばれた『ラ・ブーム』の主役でデビューし、一躍トップ・アイドルとなる。ややアジア人に似た外見が特徴で、これは本人も認めるところである。現在もフランスでの人気は高く、最も売れている女優であるとも伝えられる。
1980年2月、母と共に10代を探しているモデル事務所を偶然見つけ、写真を撮ったが声がかかることは期待していなかった。これが、デビューのきっかけとなる。 そのころ、クロード・ピノトー監督の『ラ・ブーム』のキャスティングディレクターがモデル事務所に新人を推薦するよう声をかけて回っていたのである。『ラ・ブーム』はフランスで入場券450万枚の売り上げを記録するに留まらず、他のヨーロッパ諸国や日本を含めたアジアでもヒットとなった。続編『ラ・ブーム2』でセザール賞最優秀新人女優賞を受賞する。以下、女優としての活躍は多く知られるところである。
2003年、フランス政府より芸術文化勲章を受賞。監督業としては、L'Aube à l'envers(1995、短編映画)、聞かせてよ、愛の言葉を Parlez-moi d'amour (2001)、ソフィー・マルソーの過去から来た女 La Disparue de Deauville(2007、出演・脚本も)。2008年、フランス映画祭(横浜)に団長として来日。
日時:2012年1月17日
会場:西鉄ホール
料金(一般):前売 1,000円 / 当日1,200円
料金(学館生 / 学生 / 60歳以上の方):前売800円 / 当日1,000円
お問い合わせ:九州日仏学館(Tel : 092-712-0904)
エンディングに“父親へ捧ぐ”だったか、“両親へ”といったふうな献辞があったと記憶するが、生来の映画好きとしては、ルネ・クレマンやアラン・レネなど、わが国ではフランス映画界の“巨匠”であるとか“名匠”と被される映画監督や、ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォー、ジャック・ドゥミ、アニエス・ヴァルダ、そしてロジェ・ヴァディム、ルイ・マル、ジャン=ピエール・メルヴィルやクロード・ルルーシュなどによる“ヌーベルバーグ”と称せられる監督たちへの敬愛とも受け取れた。
「ソフィー・マルソーの過去から来た女」のメイキングフィルムを偶然にネット上で見ることが出来たのだが、アン・ドゥ・トゥルワ、アクションと撮影現場で声をかけるシーンは、13歳でこの世界にデビューを果たしたソフィー・マルソーの映画への情熱を感じる場面であった。※
映画「ソフィー・マルソーの過去から来た女」は、普段のストーリーテラーによる映画を見付けている観客には、少し見辛いものはあるだろう。クロスカッティングまたはフラッシュバックと呼ばれる非常に短い間隔で異なる場面のシーンを切り返す手法の多用は、ストーリーのはぐらかしとさえ思えて来るからである。心理上での虚像と実像が入り乱れる映画手法である。題名を思い出せないでいるが、1970年ころのイヴ・モンタン主演のアラン・レネによる時の政治模様も絡めた男と女の情愛を描いた映画では、思いと現実のカットバックによる画面操作で、どうにもならない現実の有様がよく伝わって来たのを覚えている。また、ストーリーが突然予告も無しに終ってしまうかのような印象は、フランス映画の特徴のようであるとは、過去に遡って、うろ覚えながら読んだ本のどこかにあったようである。現実のわれわれの日常も、取り立てて筋などは無いから、映画の中の人生でも筋は無いのである。ヒロインが死ねば、余韻など無く、映画も終る。物語に神のごとき視点など要らないということだろう。印象だけの話だが、フランス映画を難解に思ったり分かり辛く感じたりするとすれば、このような理由に因るのかも知れない。※
では、「ソフィー・マルソーの過去から来た女」という映画は、どのような映画なのだろうか。“30年前に謎の死を遂げたかつての有名女優”にまつわる複雑な過去と人間模様が描かれた映画であることは理解できるのだが、忙しなく煙草を吸い動き回る自殺癖のあるしどけない風采の刑事と謎の女の正体は、一体何なのか。刑事は悲しみの表情をして、憂鬱そうにスクリーンで振る舞う。この自殺癖のある廃人のような男は愛する人を、理不尽にも失くしたらしい。では、謎の女は、一体誰なのだろうか。幻惑を更に深める画面展開に物語の謎は深まるばかりである。そして、この映画もまた、余韻などなく、説明らしきものも無く終る。解釈を強いるのがフレンチシネマなのだろう。フランス人、否、ソフィー・マルソーに聞いたが早いが、教えてはくれない。否、これは、かれらの人生模様そのものだと、勝手に推察する方がベターだろう。
物語は終わりに近く、謎の死を遂げたかつての有名女優と、フラッシュバックで現れる謎の女を演ずるソフィー・マルソーは変装の黒髪の偽装を取り去り微笑む。しどけない風体の刑事も微笑む。かれらは抱き合う。すぐ側には事件の発端となった断崖絶壁が迫っている。ここで、謎は解き明かされる。ソフィー・マルソーは、危ういラブロマンスを撮ったのである。この入組んだ恋の駆引きは、断崖絶壁で抱擁する二人にしか分からないのである。むろん、われわれ観客には分かりようがない。極個人的な自我で撮られた作品だろう。映し出される風景は、スクリーンの中の“かれら“のものである。われわれ観客は、言葉巧みに、美しいソフィー・マルソーにまんまと騙されたのである。風景を読む余裕を持ちたいものである。※
追記かのように男優について書く。
この映画で、風采の上がらない刑事を演ずるクリストファー・ランバート (Christopher Lambert) はフランスの俳優である。どこか、亡くなってしまったが、ハリウッドの怪優と言われたマーロン・ブランド (Marlon Brando)に似ている。広い額と窪んだ目が印象的だ。“ゴッドファーザー”を演じたマーロン・ブランドは、泣き顔が絶品である。あの巨漢が泣くのである。ママ、お母さん、と言って泣いてみせる「ラスト・タンゴ・イン・パリ」は、あまりにも印象的である。※
もう一人、ホテルの社長としてロベール・オッセンが出演している。これも個人的に言えば、かなり、しどけない男を演じて絶品である。無精髭が似合う。駄目な男が似合う。フランスの女流作家クリスチアーヌ・ロシュフォールの原作「戦士の休日」を題材に映画で演じている。自殺しかけた駄目な男を演じるロベール・オッセンは言う。「許してくれ、ジュヌヴィエーヴ。もう自由なぞいらない人間になりたい……下劣きわまりない一人の人間に……すてないでくれ、おれの傍にいて、一緒に生きてくれ……」。男優二人とも、しどけなく、泣き顔が似合う役者である。「フランスの男のイメージは、醜男かしら。」日本の女優である岸恵子がテレビ放送で言っていたのを思い出した。自殺しかけた駄目な男を刑事役のクリストファー・ランバートが演じているということは、ソフィー・マルソーの洒落っ気のある演出なのだろう。※
※ヌーベルバーグ:ヌーヴェルヴァーグ(新しい波)と言う呼称自体は、1957年10月3日付のフランスの週刊誌『レクスプレス』誌にフランソワーズ・ジローが「新しい波来る!」と書き、そのキャッチコピーをその表紙に掲げたことが起源とされる。ヌーヴェルヴァーグが興った1950年代から1960年代にかけては、フランスにおいては映画に限らず多くの文化領域で新たな動向が勃興しつつあった。それはサルトルを中心とした実存主義や現象学を一つの発端とするもので、文学におけるヌーヴォー・ロマンや文芸批評におけるヌーヴェル・クリティック、さらには実存主義を批判的に継承した構造主義など多方面に渡った現象であり、ヌーヴェルヴァーグもこれらの影響を様々に受けていると言われる。事実、ヌーヴォーロマンの旗手であったアラン・ロブ=グリエやマルグリット・デュラスは、原作の提供や脚本の執筆のみならず、自ら監督を務めることでヌーヴェルヴァーグに直接的に関与している。
※クリストファー・ランバート (Christopher Lambert):外交官だった父親の仕事の都合でアメリカで生まれる。2歳の時にスイスのジュネーヴに引っ越し、16歳までそこで育つ。パリ国立高等音楽・舞踊学校に入学し、1980年に映画デビューした。
※マーロン・ブランド (Marlon Brando, 1924年4月3日 - 2004年7月1日)は、アメリカ合衆国ネブラスカ州生まれの俳優。20世紀を代表する俳優の一人と言われている。
※ロベール・オッセン(Robert Hossein, 1927年12月30日 - )は、フランス・パリ出身の映画俳優、映画監督である。クールなマスク、渋い低音、安定した演技力という3拍子を併せ持ち、1950年代を代表する2枚目スターとなる。
※「ラスト・タンゴ・イン・パリ」:1970年代前半の映画にして大胆な性描写が世界中に物議を醸し、本国イタリアに至っては公開後4日にして上映禁止処分を受け、日本でも下世話な話題ばかりが先行し、当時の興行成績は芳しくなかったという。主演のマーロン・ブランドにとっては辛い映画であり「役者として拷問のような体験だった」と語っており、私生活でも泥沼の裁判劇の挙句敗訴という憂き目に遭った。ヒロイン役のマリア・シュナイダーに至っては波乱万丈の人生を余儀なくされ、この映画に出演した事を「人生最大の痛恨」と語っている。しかし両名の演技の評価は高く、特にブランドの中年男の悲哀感をたっぷりにじませた迫真の演技は圧倒的なものであり、本作でブランドはニューヨーク批評家協会賞を受賞している。
(監督・脚本・製作:ベルナルド・ベルトルッチ。)
※フランスの女流作家クリスチアーヌ・ロシュフォールの原作『戦士の休日』をロジェ・ヴァディムとクロード・シュブリエが脚色し、ヴァディムが監督したもの。出演は、ブリジット・バルドー、ロベール・オッセン。他。
※岸 恵子(きし けいこ、1932年8月11日 - )は、女優・文筆家。神奈川県横浜市神奈川区生まれ。神奈川県立横浜平沼高等学校卒業。 1945年5月の横浜大空襲で被災。高校在学中に小牧バレエ団に通う。もともとは作家志望で川端康成を耽読した。高校時代に観た『美女と野獣』に魅せられ、映画に興味を持ち松竹大船撮影所を見学するうちに、吉村公三郎監督にスカウトされ、大学入学までという条件で『我が家は楽し』に出演したのを契機に映画界に入る。
※写真は全て九州日仏学館提供による。
九州日仏学館
遠い風景 山根 秀信 個展
Paysages lointains
日常生活は、いろいろな物や情報に溢れているが、それらは絶えず消費され目の前から消え去る。そこには生活を送る中で積み重なっていくであろう「生の記憶」のようなものは蓄積されない。つまり過去から未来へと続く時間の中で、今日、私たちは自分の存在を捉えることが難しくなっているのではないだろうか。
今回の展覧会では、スーパーマーケット、駐車場、住宅地といった日々目にする、ありふれた風景を題材にした作品である。モノトーンに近い色調で、感情を交えずに淡々と日常の空間を描くことで、どこかリアリティーのない遠い世界のように表現した、油彩による風景画である。※
山根 秀信 / Hidenobu Yamane
1959年山ロ市生まれ。1985年東京芸術専門学校(TSA)卒業。
1991年~1993年 フランス、ノルマンディーにて「田窪恭治サン・ヴィゴール・ドミュー礼拝堂再生プ口ジェクト」に参加。 1994 年山口市に帰郷。以後山口県を中心に制作、発表活動を行う。 2008 年 山口日仏協会会員(理事)。他、グループ展、個展多数。
会期:2009年12月8日~2010年1月16日
会場:九州日仏学館5Fギャラリー
お問い合わせ:092-712-0904(九州日仏学館)
展示室に入るや寂寥としたものを感じた。身体感覚をなくした眼のようなものが風景をながめているとでもいったらよいのか。浮遊する眼のようなものが生命を感じさせない人気のない風景を、今日ふうにいえばスライドをしていく。これらの風景が異国を思わせたのは作家 山根秀信の経歴にあるフランス滞在という記述が、そう思わせたのだろうが、極ふつうに見覚えのある身近な風景が油彩により描かれている。なぜそのような趣の風景を山根秀信は描くのか。それは、かれにとってもっとも生き生きと印象に残る今日という生活の題材であるからであろう。
もうひとつ過ったのは、アメリカの小説家トルーマン・カポーティ(1924年〜1984年)のノンフィクション・ノベルを題材とした「冷血」(1965年)という映画だ。この時の不気味な喘ぐようなカメラワークは現在でもサスペンスものの数々の映画に影響を与えていると思われる。アメリカ合衆国カンザス州で起きた動機不明の農家の一家殺人事件を題材に取っている。誰とも知れない眼になってカメラが動き回る様は、うろ覚えだが恐怖そのものであった。それほど新鮮に思えたカメラワークだったのだろう。山根秀信の絵には油彩による風景画というより、より映像に近い趣がある。
ちょうどこのころのアメリカ合衆国は大量生産、大量消費の浮かれ気分に陰りがさしはじめる。ベトナム戦争への参戦、大統領の暗殺など体制を揺るがすような悲劇が多発している。方や日本は小型のアメリカを目指した成長期にあり、その後バブル景気を迎え大量生産、大量消費のおいしさも経験したが、なんともいい難い疲弊した現在の世情を迎えている。※
前置きに、「私たちの日常生活は、いろいろな物や情報に溢れていますが、それらは絶えず消費され目の前から消え去っていきます。そこには生活を送る中で積み重なっていくであろう「生の記憶」のようなものは蓄積されません。つまり過去から未来へと続く時間の中で、今日、私たちは自分の存在を捉えることが難しくなっているのではないでしょうか。」とあるが、百年単位の建物がいまだに生活に根ざしひとびとの暮らしがあるというわけには日本という国はいかないのである。目の前のこととして、つくっては壊す世界が相変わらず続いていくだろう。山根秀信の絵画は、このような世界を繊細に感知しているのである。わたしの内的な目が、わたしだけの世界を映し出している。作品の中に人影を見ないのは、そのせいである。わたしは身体を必要としない内省の世界に閉じているのである。ふつうは他者の中に自分を見分け生きているのだが、身体を持たない眼はこのように世界をながめるのだろうかと思わせるやや不気味とも思える浮遊感がある。月は命を燃えつくしたあとの死んでしまった星である。月面がメインのモチーフとなっているようだが、うなずける。風景の中に、染み入ったような”生の痕跡”は期待できない。根拠の無い突然現れた意味の無い風景があるだけである。
※九州日仏学館テキスト。
※1967年、同名の『冷血』(英題:In Cold Blood)として映画化された。 監督・脚本はリチャード・ブルックス 。音楽はクインシー・ジョーンズ。アカデミー賞4部門(監督賞・音楽賞・撮影賞・脚色賞)にノミネートされた。
※トルーマン・ガルシア・カポーティ(Truman Garcia Capote、1924年9月30日 〜1984年8月25日)は、アメリカの小説家である。「遠い声 遠い部屋」、「ティファニーで朝食を」などがある。
※ノンフィクション・ノベルは、事件の発生から加害者逮捕、加害者の死刑執行に至る過程を再現したもので、前出のカポーティが名付け親であるそうである。。
※原画は、作家のメッセージを伝えるためにカメラでいうピンボケのタッチで描かれている。風合いはかなりちがう。近くで見たら風景の輪郭はなくなる。
九州日仏学館
Nebula 高鶴 アタル 個展
石彫刻、絵画と様々な素材を組み合わせながら、「地球が生まれた宇宙空間」を表現してきた造形作家の展覧会。2010年は、フランスでネオンランプが開発されて100周年にあたることから、今回の展覧会では、そのネオンと石彫刻やLED、発光ダイオード、キャストガラス、鏡など様々な素材を組み合わせた絵画作品などを合わせた展示である。
高鶴 アタル 略歴:1967年福岡県生まれ。1989年夏に、アトリエ・二コリーの大理石彫刻講座を受講(カラーラ、イタリア)、1989年秋に、ラコスト美術大学の美術講座を受講(ラコスト、フランス)し、1992年には、タフツ大学及びボストン美術館付属美術大学卒業、美術学学士号を取得する。こうした経歴から、日本のみならず、海外でも精力的に制作・発表を行っている。
1998年 「北アメリカ彫刻展」フットヒルズアートセンター(コロラド州)1998年 「Art of the Spirit」(永久設置賞)フォーレストヒルズ(ボストン市) 2001年 「トレイシス オブ プロバンス」FIA Francaise (ニューヨーク市) 2002年 個展「ユニバース」岩田屋・美術画廊(福岡) 2006年 個展「コンスタレーション」ギャラリーだいせん(福岡) 2008年 個展「オリジンズ」福岡アジア美術館(福岡)高鶴 アタル 略歴:1967年福岡県生まれ。1989年夏に、アトリエ・二コリーの大理石彫刻講座を受講(カラーラ、イタリア)、1989年秋に、ラコスト美術大学の美術講座を受講(ラコスト、フランス)し、1992年には、タフツ大学及びボストン美術館付属美術大学卒業、美術学学士号を取得する。こうした経歴から、日本のみならず、海外でも精力的に制作・発表を行っている。
1998年 「北アメリカ彫刻展」フットヒルズアートセンター(コロラド州)1998年 「Art of the Spirit」(永久設置賞)フォーレストヒルズ(ボストン市) 2001年 「トレイシス オブ プロバンス」FIA Francaise (ニューヨーク市) 2002年 個展「ユニバース」岩田屋・美術画廊(福岡) 2006年 個展「コンスタレーション」ギャラリーだいせん(福岡) 2008年 個展「オリジンズ」福岡アジア美術館(福岡)
会期:2010年5月29日(土)~7月3日(土)
会場:九州日仏学館5Fギャラリー
お問い合わせ:092-712-0904(九州日仏学館)
この日見た高鶴アタル展は石彫が主であり、絵もあったが、電気仕掛けのようなオブジェも見られた。テーマはユニバースである。謎をかけられたようなものだろう。目のやり場に困るという表現があるが、高鶴アタルの場合は、やりようにもやりようがない。既知の事象などとは、凡そ無関係のところで高鶴の意味するところに立ち向かわなければならない。例えて言葉のイメージとして言えばこうである。※
眼前の世界は常に変容し続ける。誰かの手によって光が現れ、その光は闇と分けられ、闇は夜と名づけられ光は昼と名づけられた。そして朝を迎えた第一日であっただろう。認識は闇夜から生まれ言葉の持つところの無遠慮さにあきれ果て腕を抱え込み、眼差しには透視力が与えられあらゆる事物を鷲掴みにしたであろう。土は土、水は水、空は空、あまねく大地に生き物はうまれ、巨大な沈黙が力で支配した。むなしさから形は生まれたのである。無骨とも言える左右の柱には種子のような形をした黒い石が鎖で繋がれ、あらかじめ仕組まれた指示書による惑星のレプリカのように極り悪げに佇む。マグマがあり、ストーンヘンジと巨石があり流星群がある。高鶴アタルが思いを馳せる意味するところのものと言って良いだろう。表現されたのは形ではなく、求めるのは意味である。意味を求めても致し方のない宇宙に何を求めたら良いのか。万物を含む全ての広がりである宇宙のかけらであるわたしは、視界の前に現れる生の痕跡としての造形を残すのである。無いことをあるかのように思わせるひとの営みは、巧緻を極め充足を求めて延々と続いていくように思われる。思い描くのは”創世記”の物語の世界であり、または、そのような匂いである。
高鶴の世界は、求め難い安住の土地の温もりであり日の光であるように思えて来る。思いを馳せる宇宙のなかに、幼い頃の記憶である異国の地の色鮮やかな秋の葉を思わせる色彩のなかに、溢れるような命の泉を見ているのだろう。
※旧石器時代人にとって間題なのは、現実のイメージではなく、彼自らのイメージの現実性であり、従って彼等は、あたかも自然における存在がリアリティそのものとして作りだされるように、自然物と同等の作品という物体を作りだすのである。つまり、一本の樹、一個の卵がそれ自身完結した具体的な物体であるように、絵画もまた一個の物体ーオブジェとなるのである。オブジヱは何らかの対象を意味する記号ではないから、その背後に意味されるものは存在せず、それは「ある」という以外によびえようのない、何の意味もない「もの」である。何の意味もないということは、意味そのものであるということであり、逆にいえばそれ以外の何ものをも意味しないということ、すなわち一個の存在であるということである。かくして旧石器時代美術は、それ目身ひとつの現実的な「もの」として自ら完結し、即時的に充足するのであり、その意味で一個のオブジェなのである。(「はじめにイメージありき」木村重信 著、岩波新書、1971年刊)
※創世記:いわゆるモーセ五書は、ユダヤ教においてはトーラーと呼ばれている。創世記はヘブライ語では冒頭の言葉をとって ベレシート(ヘブライ語で「はじめに」という意味)と呼ばれており、ギリシャ語名の「ゲネシス」は「誕生、創生、原因、開始、始まり、根源」の意である。
九州日仏学館
HIDEKI INABA 9010 稲葉英樹展

時代を画したアート&クリエイティブマガジン誌上で、グラフィックの可能性を大きく拡大してみせた稲葉は、コンピュータをツールとして表現を開始した第一世代である。多くのデザイナーが美術系大学出身であるのに対して、稲葉は大学では理工学を専攻している。そして今回のテーマはプリント。稲葉の作品のアウトプットは絵筆でもカメラでもRGBのモニタでもない。コンピュータの中で生成したイメージを印刷という技術を介して“美”を出現させる。
これは従来のアートとは対極にあるとされてきた印刷物を駆使したエキシビションである。自身の表現を0と1の集合体以上の高みに引き上げる稲葉の緻密で周到なマジックであり大胆なファンタジーでもある。絵画でも写真でもなく、ファッションでもプロダクツでもなく、そしてwebでも映像でもない、"グラフィック"の芸術表現を追求してきた稲葉の今回の展覧会は、あらゆるジャンルのビジュアル表現に関心を持つ人々にとって必見だろう。※
稲葉英樹 / Hideki Inaba
1971年生まれ。1990年代後半より『+81』などのエディトリアルデザインを手がける。
2004年、ドイツred dot awardにてコミュニケーション部門最高賞受賞。2006年、作品集『〜NEWLINE』を出版。
2007年には、化粧品メーカーであるshuuemuraとの共作によるコレクション『BTB24-graphic design by hideki inaba』を発表。同時にソロエキシビジョン「GRAPHICLINE」を開催。自身の作品がアートブックの老舗Taschenの人気書籍『Graphic Design Now』(2005年)のカバーにも選ばれる。
2008年、南アフリカ・ケープタウンにて開催された国際デザイン会議「デザインインダバ11」に招聘。パリ・ルーブル宮のフランス国立装飾美術館「kansei」展に『Print Line by Hideki Inaba』を出品。
会期:2010年2月19日〜2010年3月15日
会場:三菱地所アルティアム・ イムズ 8F

久しぶりに印刷工場でのインクの臭いを思い出した。すべてがキーボード操作で賄われるようになる前のことである。輪転機を前に刷り出しという最終的な判断を求めてくる立ち合いには、緊張したものだ。校正機と呼ばれる一畳程の手刷りの印刷機も思い出したのだが、コンピュータ化した今もあるのだろうか。グラフィックデザインは、印刷物のためのデザインである。その頃は、画像加工の工程も手作業であった。現在のようにモニター上ではなく、原寸のフィルムが大量にある世界と思えばよい。こういう現場をたずねると、上履きに履き替え埃が立たないようにと気持ちを整えた。
今回の「稲葉英樹展」のテーマはプリントであるという。稲葉がこれまでに関わったというエディトリアルデザインを参照する限り、彼はグラフィックデザイナーとして、こうであらねばならないと、厳然としてあった従来のグラフィックデザインに課せられていた掟のようなものを捨て去ることから出発をしたのではなかろうかと思われる。それは、常識であったり、良識であったり、つまり、読みやすい適正な文字のサイズは、こうだとか、配色は、こんな場合は、こうしなさい、であるとか、本質を見たいアートを志向する者にとっては邪魔であり、反抗期の若者にとっての親の説教みたいなもので、うさん臭いだろう。
彼が関わったというエディトリアルのページを捲るのは確かに爽快である。拘らないということが、ある種の美しさを見せてくれている。
稲葉英樹の作品は、掲載の「"relax" 2004、Print Line version 2008」のように極細の線の束が特徴である。作家性の前に立つと捨てるものがあれば選ぶものも現れる。まるで、出力テスト紙を見ているような気にもなる。取り憑かれたように描くのだろう。コンピュータの手助けがあるとは言え、粘り強い根気のいる作業である。一本一本の線を操る技術と一本一本の線を自らが描こうとする美意識の世界に導く作業である。そして、そこに見えてくるのは、彼の元来持つ本質であり、これでいいのかと、問いかけてくる新たな発見の領域でしかないと思う。
「無数の微細な線を積み重ねた表現は稲葉の代表的なスタイルのひとつですが、驚くことにこれらのラインは、ほぼ手作業でマウスによって引かれています。」※
コンピュータ化で失くしてしまったデザインに対する手作業の謙虚さであるとかプライドであるとか、手応えのある創作上のほんの些細な発見の喜びを、稲葉は、むしろコンピュータで呼び戻したいのだろう。あの極細の線を“マウス”で描くと念を押す。つまり、彼の仕事に対する手応えであり、プライドであり、創作の喜びである。マウス作業は、今や、かつての職人が使ったナイフのような切っ先を持つ金属の先端にインクを含ませ螺子によって線の太さを調節して描く筆記用具に等しいアナログなレベルなのだろう。
当り前のことを当り前に享受しているだけでは、理解できない世界というものは当然存在する。ただ線を描くだけで喜びを感じる世界もある。稲葉は、彼の眼で、プリント(印刷)という方法によって彼の美意識の世界が再現できているかどうか確認をしたいのである。少しでもラインが欠けていたら納得をしない。そのような世界であり、あくまでも、グラフィックデザイナーでありたいのである。元はと言えば、グラフィックデザインは専門性の強い匿名性の仕事である。そこに作家性を追求する前に、職人としての仕事があり商いがある。ただし、この構図は崩れつつある。コンピュータによる技術の平準化によって、今や、どの分野から才能が開花するかは予想のつかない時代である。今更ではあるが、技術革新は、グラフィックデザインの世界にも新たな表現の可能性の領域を与えてくれた。
今回の展示会では、インスタレーション「PRINTER」と「Burst Helvetica」で自らがグラフィックデザイナーとしての立つ位置を見せ、「LINE」シリーズに於いてアーティストとしての立つ位置を見せたのである。
※ 作品そのものについての追記である。掲載作品の「"relax" 2004、Print Line version 2008 」は、ヘアライン仕上げと言われる、主にステンレスなどの表面に髪の毛のような細いラインが入る金属の仕上げを思わせる表現である。正にへアラインでできたプロフィルに覆い被さるように極細のラインの束が波打っている。端的に言えば、これらラインの束は風に舞い手をつけられない状態に見える。この作品は、当初の目論見からは外れて完成をしてしまったのだと思う。彼は極細の線で豊かな髪が波打つ美しい女性のプロフィルを描きたかった。だが、結果的にリアリズムには至らず極細の線だけが印象として残ったというわけである。いや、逆に、破壊的とも言える独特の美しさを、この女神は湛えていると思う。「NEWLINE展 "Burst Helvetica" 2004」は、連日のグラフィックデザイナーとしての仕事の中で、極ありふれた、ありきたりの欧文書体に接するときの衝動のような作品であるだろう。直訳すると「破裂する書体、ヘルベチカ」。可読性を無視したことによる削り取られた文章の意味合いより、垂直に立ち上がる炎のようなラインに、抑えられぬ衝動と新たなアートの領域への挑戦を見たいのである。
※三菱地所アルティアムによるテキスト引用。
※ Text: Jiro Ohashi.
三菱地所アルティアム
HIDEKI INABA
松下由紀子彫刻作品

松下由紀子 / Yukiko Matushita / 彫刻家、画家
1984 千葉県生まれ
2008 東京藝術大学美術学部彫刻科卒業
2010 東京藝術大学大学院美術研究科彫刻専攻修了
個展
2011 「越境と融和の進化論」(マキイマサルファインアーツ/東京)
2009 「機能的な依存」(東京藝術大学/東京)
「灰神楽」(マキイマサルファインアーツ/東京)
2006 「消失点」(東京藝術大学/東京)
グループ展・他
2012 「龍」(マキイマサルファインアーツ/東京)
2010 「トラ!トラ!トラ!」(マキイマサルファインアーツ/東京)
「仏像展Ⅱ」(マキイマサルファインアーツ/東京)
2009 「CIGE2009」(中国国際貿易中心/北京)
「アトリエの末裔あるいは未来」(旧平櫛田中邸/東京)
2008 「Midsummer show」(Azabu Art Salon Tokyo/東京)
「JOY」(project space PAX/北京)
2007 「オンナノコア~onnnanocore」(exhibit LIVE&Moris/東京)
2006 「宙の実験」(東京藝術大学/東京)
「取手アートプロジェクト2006」(茨城)
2005 「3.14展」(デザイン・フェスタ・ギャラリー/東京)
「GEISAI#8」(東京ビッグサイト/東京)
受賞
2007 久米桂一郎賞
私とは誰か? ここでとくにひとつの諺を信じるなら、要するに私が誰と「つきあっている」かを知りさえすればよい、ということになるはずではないか? 私は認めざるをえないのだが、この「つきまとう」ともとれる言葉には迷いをおぼえる…. それはある人々と私とのあいだに、思いもよらなかったほど奇妙な、避けがたい、心惑わすような関係を設けてしまいそうだからだ。この言葉はもとの意味を越えてはるかに多くのことを語り、私に生きながら幽霊の役を演じさせる、つまり明らかにそれは、私である誰かとなるために、私がもはやそうであることをやめなければならなかったもの、そのものを暗示するのである。※
去年だったか、今年の初夏だったか、記憶に対して面倒になっている。白昼奇妙なものを見た。言い表し難い奇妙なものである。それから数ヶ月はひとりで部屋にいることに恐怖感があった。今でも思うと鳥肌が立つ。家人に笑われたが、側にいてくれるようにお願いをしたように記憶する。しかし、そんなに怖いなら、しばらくは生きているが良いということかも知れないと今は自分勝手に思うのである。
松下由起子の彫刻による作品には、すぐ側の怖さのようなものを感じさせる。不幸とは、どういうものかと思わせる。まるで、小さな子の学校の宿題のように、それは正直に作品で述べられている。見えない闇に光を当てるのが芸術家の仕事だろう。作品から、必死のメッセージは十分に届いている。
「灰神楽、あるいは花嫁」という作品の立像の表情は、無惨な程までに虐められた後の表情である。歪な躯をして動くたびに、その醜さでもって嘲笑われたことだろう。仕返しが、憎しみが、報復が、この後に続くだろう。吊るされて腐敗したような手首は何を物語るのか。社会との関係を必死で保とうとしているのである。※
不幸や惨めさ、悲しさは、一体どんなものだろうかと、凡百は思う。戦火の中は、ひどすぎるだろうか。幼い子を傷つける崩れ行く家庭だろうか。※
無惨にも引き千切られたような人間の手足が板の上に転がっている。「仏像」という作品である。いつだったか、神隠しにあったように一人の若い女性の行方が分からなくなり、後に、殺されて躯をバラバラにされてゴミのように棄てられて見つかった事件を思い出す。こうやって書くのも、やりきれない思いである。そのような事件であった。人間が人間に仕出かした“残虐”は思い描けば、いくらでも出て来るだろう。もう、これで十分だろうと思う。
作品は問いかける。生きていても仕方がないのではないのか。“救い”などと、とんでもない話である。わたしが作ってしまう悲しみ。わたしがどうしようもなく、どこかで抱える残虐さ。これでも、生きろと、誰かである、誰かは言いますか。泣いても、泣いても、止まらない涙に埋もれる小さな女の子。誰が、こんなにいじらしい可愛い子を虐めるのだろうか。※
彫刻の世界というのは、人体を模倣する世界である。他に、差し迫って向き合うものがあるだろうか。美術館に行けば、普通に裸婦像が飾られている。それぞれに、ある時代に於いて、美しいと思う、彫刻芸術への観念のもとに作られている。この模倣の馬鹿馬鹿しいほど愚直な世界は、数万年前の先人による野獣の洞窟壁画に変わるものであることは誰も否定はしないだろう。目の前の野を駆ける野獣が世界を知る客体であったのだが、今や人体が世界を知る全てとなったわけである。
※「そこにいるのは誰か?」という叫びを、投げかけることができたのだ。そこにいるのは誰か?ナジャ、君なのか?彼岸が、彼岸のすべてがこの生にあるというのは本当なのか?私には君の言うことが聞こえない。そこにいるのは誰か?私ひとりなのか?これは、私自身なのか?(ナジャ:アンドレ・ブルトン著。巌谷國士 訳、1989年、白水社 刊。)※「ナジャ」という書物について、まずこのような考察からはじめてみると、その冒頭にあらわれる「私とは誰か?」という多義的な問いも、ひとつには、ブルトンに固有の自動記述約文章体験、そしてそれに通じる彼の生き方を語ろうとしたものではなかったか、と思われてくるにちがいない。「私とは誰か?」というフランス話 Qui suis – je? は、同時に、
「私は誰を追っているのか?」をも意味するものだった。つまり、自己同一性への問いがすでに他者との関係を含み、私を問うことが誰か他者を追うことを意味する、あるいは他の私を追うことを意味する、とブルトンは感じているわけだ。そこで彼は、「ひとつの諺(=誰とつきあっているかを言えば君が誰なのかあてよう)」を思いうかべてしまうのだが、この「つきあう hanter」がまた「(幽霊などが)つきまとう、とりつく」の意でもあることから、私がつきまとっている他の私を、「その真の領域について私がまったく知らないある活動」に属しているらしい他の私を、文字通り「幽霊」として、「前世」ではないこの現実のなかに想定せざるをえなくなる。
同上の書籍、巌谷國士による解説より。
※アンドレ・ブルトン:(André Breton, 1896年2月19日 - 1966年9月28日)は、フランスの詩人、文学者、シュルレアリスト。ちなみに、誕生日については、ブルトン自身しばしば2月18日とも公言しているが、それは「詩的」な意味でのことで、書類などでも2月19日生まれとはっきり記されている。
※ 灰神楽:火の気のある灰に湯水をこぼした時おこる灰けむり。
※死ぬのが怖い―
それを緩和するために、序々に達観したいと考えています。
しかし、それを望むほど、自分がいろいろなものに執着していることに気づきます。
そしてその執着を捨てられないのは、そうしたものほど魅力があるからです。
それは人らしさであり、必死になるもの、時にかっこ悪く、いやらしい。
つまり「色気」であると、考えます。
これが私の作品のテーマになっています。
この現代、世の中が洗練されるにつれて色気を感じる要素が減ってきていると思います。
そして死を意識することも。
そんな軽さのなか、あえて私は重たいテーマを掲げ、向き合い、生きていることの実感を獲得したいと思います。
作品から人の色気を客観的に見て感じとることで、人の儚さを受容するきっかけとしたいです。(松下由紀子作品ステートメント)
※結婚したいと思ったことはない。(中略)
子どもは、自分ひとりでさえも持て余しているのに、その上つきっきりで面倒をみなければならないものが傍らにいたら、私は書けなくなるに違いない。子どもを産む、ということを考えるとき、必ず頭に浮かぶイメージがある。私はベランダで襁褓(おしめ)を干している。部屋のなかで泣き声がする。私はべビーベッドに転がっている赤ん坊を掴み、マンションのベランダから放り落とす。このイメージは油染みのように私の脳裏にこびりついていて、洗い流すことができない。子どものころに崩壊してゆく家庭に身を置いていたせいだろうか。(「私語辞典」柳美里 著、1996年刊、朝日新聞社)
※柳 美里(ゆう みり、1968年6月22日 - )は、神奈川県横浜市中区出身[の在日韓国人の小説家、劇作家である。国籍は韓国。横浜共立学園高等学校中退、演劇活動を経て1994年に小説家デビュー。1997年芥川賞受賞。作品には私小説が多く、無頼派の系譜を継ぐ作家と評されることがある。
松下由紀子彫刻作品
椎原一久 写真展 「光・影・彩」
椎原 一久 略歴:1956年、東京生まれ。1969年、スキューバダイビングと同時に水中写真を始める。1974年 ニコン主催、九州地区ニコンシステムショウにて個展開催。1982年 九州産業大学芸術学部、写真学科卒業。1985年 東京渋谷ドイフォトプラザにて個展開催。2001年 第57回福岡県美術展覧会入選。ライカ同盟展優秀賞受賞 2006年。九州日仏学館ギャラリーにて個展開催。2007年、福岡市製作の広報写真集「福岡の顔」製作フォトグラファーとして活動。2008年 ニューヨークのA-forest Galleryにて写真展開催。2010年 上海万博国連館フォトコンテスト入選。2007年より「アクロス福岡シンフォニーホール」専属契約カメラマン。及びフリーランスフォトグラファーとして活動中。
会期:2010年4月3日~28日 会場:九州日仏学館5Fギャラリー お問い合わせ:092-712-0904(九州日仏学館)
長い人影が美しい写真である。曇りのない画面は底までもうかがえる透明な湖水に映る影絵のようである。ふたりの少女らしき姿からの視線は感じるが、影だから表情がわからない。あどけない視線はどの辺りなのか。作家の目はあたたかい。
もう50年以上も前の記憶だが、叔父が二眼レフの写真機をくれた。なぜそのような高価なものをくれたのか思い出せないでいる。ビジネスにも成功していて当時のあの黒塗りの自家用車にはあまりにも眩しいものがあった。通学路を乗せてもらった記憶があるが、同級生を車窓に眺めながら違和感を覚え途中で降りてしまった。怪訝そうな叔父には悪いことをした。二眼レフには肉眼でのぞくファインダーもあったが、もっぱらその長方形の筒型の上部にある真四角の磨りガラス越しに映し出される風景に面白味を感じていた。いろんなものを撮ったが、いつか飽きてしまった。
椎原一久の写真からは素養であり経験であり、ひとつのことに傾注をしていくひとの様がありありと見えてくる。写すことの喜び、楽しみ、それを見ることの満足感、そして、その瞬間に身震いを感じた記憶に充実を覚える生活がある。テーマは「光・影・彩」である。ライフワークとして撮り続けている都市(福岡市)の"光と影"がモチーフであり、"彩"はカラーでおさえた「都市空間」である。掲載の写真は大濠公園の壕をのぞむ景観である。左上に松の枝が覗きオレンジに染まる青空、画面上を真横に区切る都市が壕に映る。都市の様子は影に溶込んでいるように見えるが、うっすらと細部の色彩を漂わせている。作為を感じさせないていねいな世界がここにはある。もう一つは、モノクロのもので二人の少女と舗道上を行き交うひとの群れを俯瞰でとらえた作品がある。尾を引く長いひと影がグラフィカルで美しい。半透明の影もあれば歩道を黒く塗りつぶした影もある。どこまでこの明暗を感知できるかが使命のような写真である。モノクロの作品は概ね影が主役である。それぞれの影は写したというよりこと細かく採取したという趣である。電柱とビルの壁の間の電柱の半透明の影の写真がある。このような眼差しもあるのだということを教えてくれる一枚である。
カラー表現においては、隅々まで色彩を活かすことに注意が向けられる。屋内の色彩は影と重なり合う部分に特に繊細さを感じるように計算されている。屋外においては遠景にある小さな赤は赤として濁りなく認識できるように再現されている。モノクロがフィルムで、カラーがデジタルで撮影をされているということである。このことの差異は写真機の技術の粋に求める機械上のことなのだろう。要は熟練の世界であり解せぬ者には及びがつかない。銀塩だデジタルだというようなことには一向に興味が湧かないが、真冬の夕暮れ時の粉雪が舞う舞鶴城の作品は情を絡めてないだけに美しい。地面に舞い降りた粉雪に触れる思いである。新ためて、写真を撮るひとの思いを想像させてくれた椎原一久写真展であった。
「あらゆる色彩は影よりも光りの当たる部分における方が美しい。光は色彩を活発にしその性質を正しく認めさせるのに、影は同じ美しさを弱め曖昧にし、その色の認識を妨げるからこういうことが生まれる。もし反対に黒は光の中より影における方が美しいとしたら、黒は、況んや白は、色ではないと答えよう。」(レオナルド・ダ・ヴィンチの手記、「絵の本」の章より「光、影、色」より。杉浦明平訳、岩波文庫)どこかでひょいと顔を出す先達の言葉はあらゆる世界を楽しくさせる。
九州日仏学館
東信 展:AMPG vol.25 エキシビジョン
東信(あずま・まこと)1976年福岡県生まれ。花屋「JARDINS des FLEURS」を営む傍ら、2005年以降活動の幅を広げニューヨーク、パリ、ドイツで個展を開催。アルティアムでの個展は3年ぶり2回目となる。会期:2009年3月18日-2009年5月24日会場:三菱地所アルティアム・ イムズ 8F
氷漬けになった松の盆栽、鉄柱に括りつけられ風を切る音を立てながら勢いよく回転する小ぶりの松。衝動的で暴力的な印象である。居合わせた二人の若い女性は、「あっ、松が廻ってる。」と言って、ものの数秒程で会場を後にした。作家の本業が「花屋」ということから華やかでフェミニンな作品を想像して入場したのだろう。福岡市の中心部にある多目的でスタイリッシュなイムズビルである。本業の顔では、ビル内に色鮮やかな花のアレンジメントが会期中には見られたはずである。
会期最終日の会場に入ると正面間仕切りの白い壁に、車中から撮影したと思われる地方の町並みの映像が投げやりな無造作な雰囲気で流れている。奥へ細長いアルティアムは間仕切りで三つに分けられ、映像が流れるその奥の左壁には作品のためのスケッチと思われるドローイングや写真という組み合わせ。右には手のひらほどのボリュームの液晶モニターが計24個、低めの位置にセットされ、これまでの個展の記録映像が流れている。何処を覗いても、はぐらかしを受けているような気分になる。液晶モニターの中では人影が忙しく動いている。見ていても詮方ないのである。全ては含羞の現れとしか思いようがないのである。もう一つの間仕切りの後ろには、二メートルは十分にある、横たわる大きな樹の幹に大小の筍が立てられている。遠目に火でも燃やした後かと錯覚をしてしまう施しである。黒と白のインクを筆の先に付け飛ばしたのであろう。樹の幹と筍とその廻りの床、床に作者が施したドローイングもインクで塗り潰されてしまっている。まるで奇妙な光景だけを残した、手掛かりは一切ない荒々しい犯行現場に遭遇したような気になる。ドローイングの一部が塗りつぶされず残っていて、英文で「...It was empty..」とある。和文では、「それは空でした」となる。作者は、たぶんに、これは意図的に残したのだろう。東信は福岡県福間出身。《記憶の植物_0-21 fukuma》がテーマである。スクリーンの様子になつかしさが滲んでいる。遠い記憶は映像の中の彼らにどう映ったのだろうか。樹の幹を福間海岸で拾う様子が映像にある。やんちゃな男の子の世界が覗ける。重しは取れただろうか。
この日に居合わせた入場者の一人の女性の姿が印象的であった。作品の間を行き来しながら考え込んでいるのである。美術批評の用件と見受けた。会場を出ることにした。東信は、ある謎の思いを暴力的な装いで作品として見せたが、やはり、拭いきれない叙情性を隠し通すことはできなかった。しかし、本業である花屋への充分な肥やしであり、逞しい想像力を垣間見るのである。
三菱地所アルティアム
azumamakoto.com
三菱地所アルティアム
EXHIBITION OF WONDERWALL ARCHIVES 01 10 PROJECT MODELS
数々の人気店を生み出す片山正通率いるWonderWallの展覧会
片山正通。1966年岡山県生まれ。2000年にワンダーウォール設立。インテリアデザインのみならず、建築デザインディレクション、プロダクトデザインなど幅広い分野で活動。クライアントのコンセプトを具現化する自由な発想、また、伝統や様式に敬意を払いつつ現代的要素を取り入れるバランス感覚が高く評価され、日本国内はもちろんのこと、フランス、アメリカ、イギリス、ロシア、オランダ、香港など海外でも活躍中。
現在は、Westfield Sydney(ショッピングモール環境デザイン、2010年10月オープン)、JR東日本とJR東日本青森商業開発による「A-FACTORY」(2010年12月4日オープン予定)、リッツカールトン香港の118階に位地するレストラン&バーラウンジ「OZONE」(2011年オープン予定)などが進行している。※
会期:2010年12月4日〜2011年1月4日 会場:三菱地所アルティアム・ イムズ 8F
オフィシャルサイトでWONDERWALLのOFFICEの写真を見る。こだわりの建築物によくある打放しコンクリートである。そのコンクリート製の壁面は木肌模様であり、個人的な思いを起こさせた。華やかで今を生きるインテリアデザイナー・片山正通の世界とは正反対の世界ではあるが、インテリアデザイナーの世界であることは共通である。菩提寺はインテリアデザイナーが作った打放しのコンクリートの建築物である。WONDERWALLのOFFICEの外壁のように、珍しくもないのだろうが、木肌模様を施してある。通りに面した玄関の扉はまがい物を嫌い正真正銘の鉄製である。相当の重量であるらしい。本堂外観は湖面に映える古城だろう。内部は外部からの光が印象的な大聖堂であり、奥座敷は庭に眼をやると竹林が美しい和のパノラマとなる。細部の調度品も幾世代もが伝えて来た京職人の仕事であるという。本堂の天井は恐ろしく高い。インテリアデザインとは口にはするが、実際のところは誰もが詳しくわかっているわけではない。身近なところから入ってみようと思っただけのことである。そして、使ってみなければ分からないだろう。
片山正通の世界からは、即、クライアントとのやり取りが透けて見えてくる。インテリアデザイナーが求めてくる商いの商材は、世界中のあちらこちらから声がかかるのを今か今かと固唾を飲んで待っているはずである。時間は待ってくれない。商いの兆しが少しでも世界のどこかにあれば、時間という衣を纏い吸込まれるように飛び込んでくるのが現代だろう。物が溢れているように見えはするが、ふるいを掛けて時間だけを抽出をするとすれば全ては瓦解するだろう。ダリの絵を思えば良い。
三菱地所アルティアムの展示室真正面に「EXHIBITION OF WONDERWALL」のネオンサインが迎える。おしゃれなカフェバーに向かう気分である。黒いボードで仕切られ左に折れると通路状になる。左壁にこれまでのプロジェクトが掲示されており、楽しげな色合いに都心の若やいだ居住空間を思い浮かべる。くすぐったい響きの電子音のBGMが更に拍車を掛ける。
ビジネスの場面であれば、気にかかるのはクライアントとの掛け合いである。代表の一声で全ては進むだろう。「君に任せるよ。」でも困る場合もある。更に、全ては没の判断が下り、一から出直さざるを得ない場合もある。「別の業者に決まったよ。」と言われる場合もある。相手は神だからもみ手をせざるを得ない。片山正通の場合はどうなのだろう。
仕切られてできた通路を右に折れると10個のプロジェクトの模型が並ぶ。仄暗くライティングされたスペースに、ミニチュア本体から漏れる灯りがプロジェクトを浮き出させる。
プレゼンテーションは神であるクライアントを唸らせる作業である。コミュニケーション能力に欠けた人物はデザイナーなどはやらないことである。デザイナーは絵描きではないだろう。ある目的に従ってことを進めるビジネスマンである。模型には、本物のように光と影があり、わたしたちを納得させる。ショップデザインならばミニチュアにも商品が並ぶべきだろう。買い物客も当然ながら姿を見せなければならない。室内も立ち上がった実物と同じようにライティングは施されるべきだろう。この店舗は、どのような階層の人々に、どのような年齢層に向かっているのか。むしろ、クライアントよりも先に解るべき想像力は養わなければならないだろう。専門分野でも、互いに解りやすく、仕事を進め易くしてやるべきである。片山正通の模型は、クライアントへの噛み砕いた解りやすい専門分野の説明であり説得術と思うのである。
※三菱地所アルティアムテキスト
三菱地所アルティアム
牛島光太郎 意図的な偶然 ------- 七つの土地
牛島光太郎
1978 福岡県に生まれる。
2003 成安造形大学 彫刻クラス研究生修了<個展>2009 「intentional accident/意図的な偶然」京都府立文化芸術会館(京都)2008 「scene」 關渡美術館 Kuandu Museum of Fine Arts(台湾・台北市)2008 「Curator's Eye 2008」 Gallery Maronie(京都)<グループ展>2009 「gallerism 2009」大阪府立現代美術センター(大阪)2009 「Mirage」同志社大学 京田辺キャンパス(京都)2009 「神戸ビエンナーレ2009」神戸メリケンパーク(兵庫)2009 「ART OSAKA 2009」堂島ホテル(大阪)2009 「Preparation for salon」旧大賀APスタジオ2008 「gallerism 2008」大阪府立現代美術センター(大坂)2007 「Wording image [spell]」art project room ARTZONE(京都)2007 「Ich sehe was,was du nicht siehst あなたに見えていないものが、私には見えています」 CAS 特定非営利活動法人 キャズ(大阪)2007 「Ich sehe was,was du nicht siehst」Kuenstlerhaus Dortmund(ドイツ)<レジデンス>2008 關渡美術館 Kuandu Museum of Fine Arts(台湾・台北市)において滞在制作・展示2007 Kuenstlerhaus Dortmund(ドイツ・ドルトムント市)において滞在制作・展示<パブリックコレクション>『scene-35』、『scene-36』 關渡美術館 Kuandu Museum of Fine Arts(台湾・台北市)
会期:2010年4月24日〜2010年5月16日 会場:三菱地所アルティアム・ イムズ 8F
会場に入ると、陰と陽という言い方をすれば、陰の割合は多く晴れ晴れとしないものが待ち受けている。三菱地所アルティアムで開催中の牛島光太郎の今展のタイトルは「意図的な偶然」である。そのままを受け取れば、偶然ではないということになる。そして、その矛盾の狭間で、この“偶然”は生き倦ねているのかも知れない。偶然のままでは生は完結をしない。そこに意図や意志を携えてはじめてものが見えてわたしたちは歩きはじめる。これは今に始まったことではなく時代や役割や人種や国の問題や生い立ちや性や、たった今の今日の待ち合わせの相手などが関わり合った大きな積み上げとでもいったものから生まれた。そして、確かな予め定まったことなどありはしないのである。
「京都を引っ越す時に、友人が、メモ用紙にギターの絵を描いて渡してくれました。ドイツに着いた日、部屋があまりにも殺風景だったから、私はそれを部屋に貼りました。ドイツから日本に帰国する時に、私はそれを壁から剥がして、お財布に入れました。日本に帰って、自分の部屋にそれを貼りました。しばらくして、台湾に行くことになり、私はそれを持って行くことにしました。台湾のスタジオにそれを貼っていると、遊びに来ていた台湾の友人が、これは何?、と私に聞きました。私は考えたあげく、それを"お守りのようなもの"と彼に説明しましたが、それが何なのか、自分でもよく分かっていませんでした。」※
一見、丁寧語に思える語りだが、実はそうではない。単なる過去形でもない。前兆を期待しているかのようなもの言いであり、何か自分の力では動かしようのない絶対の力とでもいったものを信じているような、計りかねているような、結論をつけるには心許ない自分が見えてくる呪縛とでもいった暗示をかけられた世界を思う。
会場の入口には、彼が拾って収集をしたといういろんな極小さなモノが展示してある。区切られた別のスペースでは、拾ってきた音も聞くことができる。それらは不吉な感じを与えるし、わざとらしい趣にも見えてくる。用済みの打捨てられたようなゴミを言わば亡骸の形見かのように展示している風景を思い起こせば良い。更に言えば、敢えて取るに足りないモノを掲げ、それらモノの背景に何かが見えるのではないかと祈るような姿の己を、もう独りのわたしが何もありはしないと辛い思いをして眺めている。思い返せば遠い日に、宿題で苦痛ではあったが春休みや夏休みや冬休みに日記を書いたではないか。嘘のような本当のようなできごとが、父や母に助けを求めてその世界はできあがっていた。まだ幼い芽は呪縛の中にあったのである。
窓枠が当然のように置いてある。これも意味を持たせようという意味合いから言えば印象的である。窓からは必ず風景が見えるはずである。窓本来の機能からは空気を通す穴であり光を室内に入れるためのものである。いつのころからか趣味としての風景を内から眺める機能も持つようにもなった。牛島光太郎は知らず知らずのうちに向こう岸の世界を眺めたいという心持ちになったのだろう。何故なら、そこは偶然の悩みから解き放たれた世界があるからである。
「文字を刺繍した布で構成する作品」というのが、この個展では見られる。「言葉では説明のつかない特別な巡り合わせ」を一文字一文字布に縫い込んだ作品である。だらりとゆるく会場内に布が下がっている。仕切りに使われているものもある。以下は、長いがその全文の引用である。
「台湾に滞在している時、台湾人と現地に留学していた韓国人と知り合いになった。私たちは、同い年ということもあり、すぐに仲良くなり、よく3人で行動した。ある週末、タ飯の時に、台風の話題になった。私は、新潟県で大きな地震があって間もない頃、台風が発生した時のことを話した。その台風が、地盤が緩んでいる新潟県を通るかもしれないという二ユースを見ながら、私は台風の進路が変わることを何となく祈っていた。大型の台風ということで、ニュースでは、深刻な被害が予想される、と繰り返し報道されていた。私は自分の住む京都や、両親の実家のある千葉県と福岡県にも通ってほしくないと思った。そして、漠然と韓国の方にそれてくれたら助かるな、と思っていた。そのことを話すと、韓国の友人が笑いながら、自分も台風が接近してくる時は、いつも真っ先に自分や自分の大切な人の住む土地には来てほしくないと思い、何となく日本に行ってくれたら、と思っていると言った。すると、黙って話を聞いていた台湾の友人が、自分も台風が発生した時、同じようなことを思い、沖縄の方へ行ってくれたらいいのに、と思っていると言った。滞在中、私たちは、暇を見つけて色んな所に出かけた。私が日本に帰国した3ケ月後、韓国の友人も帰国したと連絡があった。それから1年後の夏、大型で強い台風が、マリアナ諸島沖で、発生した。私はその時、福岡県に居た。」
これらの文章の中で興味深いのは韓国や台湾の友人の返した台詞だ。極当り前の話しである。だから彼らは、そのように返事をした。しかし、当の私は、そうではなく、台風の進路の中にも己をなぞってしまい逆らい難い無力を感じてしまい、すがる思いである。受け入れ難いが受け入れてしまっている偶然が頑としてある。仮にその偶然に意図を見ようとするが、詮方ない空虚があるのみである。※
文字を刺繍した、だらりと下がった布や用済みになった亡骸のような拾ったゴミや先程まで風景が覗けたと思われる会場に立てかけられた窓枠からは“ほこら”が見えてくる。つまり、神をまつった小さな社である。※ かといって、牛島光太郎の世界は現代アートである。目の前の世界をなぞり、そこには偶然だけが支配しているのではなく意味があり、どこかに繋がりがあり、かけがえのない「お守り」のように思えてくる。福岡、京都、千葉、新潟、沖縄、台湾、韓国の7つの土地の土の写真がある。どこを掘っても土は土であるとただ牛島光太郎は言っているだけではあるが、つまり、痛々しい傷の生乾きのかさぶたを故意に無理やりに剥がす弱々しい自分をそこに見ているに違いない。但し、言っておくが、以上の文章は、先般、三菱アルティアムの牛島光太郎の「意図的な偶然」という個展を見て思いついた作り話である。凡ては依然として今だ薮の中である。
※「舎利子よ。存在は空にほかならず、空が存在にほかなりません。存在がすなわち空であり、空がすなわち存在です。感じたり、知ったり、意欲したり、判断する精神の働きも、これもまた空なのです。舎利子よ。このように存在と精神のすべてが空なのですから、生じたり滅したりすることなく、きれいも汚いもなく、増えもしないし減りもしません」(般若心経より。現代語訳/ひろさちや・仏教思想家)
※ 無理に解釈をこの仏典に求めたいがための引用ではない。誰でもが、うなずくだろう。この通りだからである。気づくか、気づかないか、それだけだろう。
※ひろさちや(1936年、大阪生れ)は、日本の宗教評論家であり、多数の一般向けの解説書を執筆している。本名は増原 良彦(ますはら よしひこ)。東京大学で印度哲学、仏教学を学ぶ。
※祠(ほこら)とは神を祀る小規模な殿舎。語源は神道用語の「ほくら(神庫、宝倉)」の転訛という。小祠(しょうし)、小堂(しょうどう)とも。神仏混合によって道祖神に関連した仏も祀るようになった。
三菱地所アルティアム
石田智子 路地
石田智子
1982年に京都精華大学美術学部染織科を卒業後、ファイバーアーティストとして活躍。1991年、作家で僧侶の玄侑宗久氏(臨済宗妙心寺派福聚寺副住職)のお寺に嫁ぎ、限られた時間と空間を生かして紙縒(こより)による作品制作を始めた。 紡がれた大量の紙縒を重ね合わせ、かつてない幻想的な世界を独自に切りひらいたインスタレーションは国内外で高く評価されている。近年では、2007年、BIWAKOビエンナーレ/近江八幡カネ吉別邸(滋賀)、東京芸大創立120周年記念公演オペラ『白狐』岡倉天心作 舞台美術/旧東京音楽学校奏楽堂(東京)、2009年、2人展/Rue de Thorigny(フランス)、まちがミュージアム/富士吉田市内古民家(山梨)、博物館から覚醒するアーティスト達/福島県立博物館(福島)、2010年、妙心寺展 梵鐘設営のための装飾/九州国立博物館(福岡)、個展/ギャラリーSUGATA(京都)<受賞歴>1996 国際掌中新立体造形展 準大賞(日本)1998 第9回国際タピストリー・トリエンナーレ 大賞、美術館賞(ポーランド) リリアン・エリオット賞(米国)2000 第9回国際レース・ビエンナーレ ファビオラ女王大賞(ベルギー)<パブリックコレクション>Museum of Art and Design (formely American Craft Museum)/New York(米国)Museum of Costume and Lace/Brussel(ベルギー)感覚ミュージアム/岩出山(宮城)西武百貨店/有楽町(東京)福島県立美術館/福島(福島)
会期:2010年5月23日〜2010年6月6日 会場:三菱地所アルティアム・ イムズ 8F
無数の紙縒りが重なりあって生まれる、静謐な空間。石田がこれまでにない“紙縒りアート”を制作するようになったのは、嫁いだ先のお寺に届けられるお供物がきっかけでした。※
石田は、その中身よりも贈る人の思いを運ぶ役割をもった包装紙に着目し、まるで願いごとの短冊を笹に結ぶように日々紙縒りを作り、それを使ったインスタレーション(空間芸術)を制作するようになりました。
展覧会タイトルの「露地」とは、命が身にまとってしまったものを脱ぎ捨てていくところを示す言葉です。想像を絶する数の紙縒りが織りなす静謐な空間は、誰もが日々の生活を忘れ、自分自身と向き合える清浄な祈りの場でもあるようです。
アルティアムでは、会場全体に約11万本もの紙縒りを使ったインスタレーションを展開します。
2週間の会期が終わると作品は解体され、二度と同じ作品を見ることはできません。※
目が覚めて朝方かと思った。夕暮れに家族に起こされた。次のページを探すが見つからない乱丁本のように、その日は終わった。その途切れたような感覚のやすらぎを何度も味わいたいとも思った。
感じてはいるが、口に出せずにいることは間々ある。立ち上った濃霧の中で一瞬、白い道が彼方まで見える。空気のゆらぎで動き漂うその道は乗れという。
十一万本もの紙縒りから編出された幽玄な作品に様々なひとの叙情を見るのは確かに最適ではあるが、更に、この作品に、ひと特有の英知といったことがらを見るとすれば、累々と重なり置かれた触れただけで壊れそうなひとのか細く白い骨を拾う作家の姿を見るのもまた正しいと思う。
ひととは、もともとが芯がないのである。たった今しがたの曇りの表情が、今や晴れである。どうしたのですかと、たずねても分からないだろう。白い道がございますが、どちらまで行かれるのですかと、聞いても、いつものことですと、ひとは答えるだろう。
※紙縒(こより)は、紙を細く裂いた物を寄り合わせて紐とした物である。
特に丈夫な紙を原料にしたものは元結と称し、主に冊子の綴じ紐や髪を束ねるために使用される。また、紙縒りに糊を引き、染色あるいは箔加工したものが水引となる。紙縒の原料となる丈長紙は、越前・美濃・阿波・丹後・伊予・土佐・日向で製紙され、2005年現在では、長野県飯田市がその特産地である。
※三菱地所アルティアムテキスト。
三菱地所アルティアム
CONTEMPORARY ART 2011・OISHI 階段57- 登ってみる
「CONTEMPORARY ART 2011・OISHI 階段57-登ってみる-(1~4F・企画)」エントランスから階段と、1階から4階までのギャラリー空間全てを活かした、19名の作家による展示。エントランスから階段は『意外性と発見』、1階はフロアーを活かした『空間認識の進化』、2階は映像とオブジェによるインスタレーションで『対話』を試みる。3階は平面的作品とオブジェの『共存』。4階は大がかりなインスタレーションで共鳴と反発の『観察』。タイトルは、会場の背骨である階段が57段で、「登って観る」と「上まで登ってみよう!」の主旨である。
作家:アキライノウエ、安西 之、神崎東洋彦、首藤マヤ、松尾雄一、吉原みずえ、大江高弘、門田ひろゆき、黒田和生、城下ユウジ、宮脇由美、村端隆明、黒岩俊哉、小西龍太郎、坂本次郎、松尾具明、御笹朋子、村上勝、木寺正喜
会期:2011年1月15日~1月23日
会場:ギャラリーおいし 福岡市中央区天神 2-9-212
TEL 092-721-6013 FAX 092-752-1066
営業時間 11:00~19:00
「ギャラリーおいし」は福岡市の中心部にあるアーケード商店街の一角にある画廊である。何故か、懐かしい匂いがする。たまたま寄ったに過ぎない。穏やかな表情の受付の女性のせいもあっただろう。中に入った。一階のフロアーの中央に円をなぞり重なり置かれた白く塗られた葉がある。その真ん中程に深い青のガラスのような色が覗ける。題して「深き淵より」。女性的な印象だ。ギャラリーは通りからガラス張りであり中が透けている。そのガラスの側に大きな卵の殻のようなものが四つ置かれている。皆割れている。中に仕掛けでもあるのかと覘くが、一つ灯りを点すものがあるような気はするが何ごとも無いようである。題して「生まれるもののかたち。あるもののなかにある」。趣のある照明器具といった風情を感じ無いでも無い。表通りから奥に向かってもう一つ、廃材のような薄くて細長い板に穴がたくさん開いていて、針金で結わえられ置かれている。題して「揺れる。」。
この展覧会のテーマタイトルは「CONTEMPORARY ART 2011・OISHI 階段57-登ってみる」。
CONTEMPORARY ARTとは、どういう意味なのか。現代アートでも言い当てていない。現代という漢字が煩く思える。現代美術だとしたら美術という単語が煩そうだし、カタカナ表記はうすっぺらに思える。やっかいである。否、むろん、たまたま、英文であり、日本語ではないから、新しいジャンルへの道標と思えば良いのだろう。※
「深き淵より」という作品。これは造形のままに、中程から美しい何かが現われるのだろうと思う。円形に敷かれた葉は何かを迎える形であり、葉の白さは私は無いということか。中央の藍色は知識だろう。知識の悩みに相違ないだろう。そう確信する。「生まれるもののかたち。あるもののなかにある」という作品である。ひとも鳥のように子が卵の中にいれば、親も子も自由なのにと思う。すこし、さびしいけれど。そう、考えてみる。「揺れる」という作品は堂々と真ん中に、ではないのである。いつも角の方に。しかし、あらゆるところに存在したい。美の追求をしたいが、わたしがダメである。本来ならば、面と向かってあなたが好きだと言いたい。大手をふるって。
残念だが、ゆっくりと全作品を見ることができなかった。などとは言うまい。見ておけば良かったのではないのか。時間はあったはずだ。上階まで登ったではないか。受付の女性に階段にも絵のあしらいがあることも聞いたではないか。「一枚一枚階段のサイズを測ってつくられたのですよ。」「それは大変な作業でしたね。」などと会話をしていたではないか。エントランスに下がっていた女性作家の作品も気になって仕方がなかったのではないのか。しつこく見ていたろう。そうだな。
※近代美術、現代美術はそれぞれ英語では、modern art、contemporary art。翻訳語であるが例外もあり、その意味は事例によって様々である。同様の語に近現代美術がある。一般に、時代区分の近代と現代には不変の境界が設けられることはなく、その時々の現代が時間の経過とともに近代に変化するという傾向が不可避であり、近代美術と現代美術の定義の曖昧さの大きな原因ともなっていると言える。芸術史的特徴を見ると、「近世美術」と「近代美術」の一部は教会や王侯貴族が美術の担い手だった時代の美術、「現代美術」は富裕層が美術の担い手になっている時代の美術という傾向も見出せる。(言わば、名前のつけようもない商品に頭の良い商人がつけた名札の極き、たくましき芸術なのだろう。)
※掲載作家名:御笹朋子、村上勝、アキライノウエ。
※福岡市の新天町商店街の始まりは、1945年の終戦直後のことである。当時の天神町(てんじんのちょう)周辺は、大空襲で焼け野原である。そんな中で博多商人たちが「町に活気と笑顔を取り戻そう」と立ち上がったのが現在の新天町商店街の原形である。(新天町商店街ホームページより)
※右下はギャラリーおいし。絵などの個展が掛けられていない場合は、こだわりの品のブティックとしても開かれている。
新天町商店街創立時に同場所に開店した「シューズショップカシマヤ」が前身。
昭和49年1月 同店2階に画廊を開館。
昭和56年に3階、昭和57年に4階を増設。
昭和62年3月に「カシマヤ」をクローズし、全館が「ギャラリーおいし」となる。
下着アヴァンギャルド宣言 ----- 鴨居羊子の小径
いま、鴨居羊子の駆け抜けた前衛芸術の時代をふりかえるということ。

鴨居羊子/下着デザイナー、画家、エッセイスト
1925 大阪府豊中市に生まれる。本名は洋子。1949 父・悠、死去。新関西新聞入社。
1951 大阪読売新聞入社。1954 大阪読売新聞退社。下着制作を開始。
1955 チュニック制作室COCO設立。 「W.アンダーウェア展」(大阪そごう)開催。1958 下着ショウ「チュニカ・ミュージカルショウ」(梅田松竹シネマ)上演。 『のら犬のボケ』(創元社)、『下着ぶんか論』(凡凡社)出版。1966 細江英公撮影の『ミス・ペテン』を自費出版。1973 『わたしは驢馬に乗って下着をうりにゆきたい』(三一書房)出版。1985 弟である画家・玲が死去。1991 脳溢血のため死去。
本展では、鴨居羊子の初期の下着、彼女が描いた絵画、デッサンなど数十点のほか、彼女自身が撮影した写真、人形、文章、様々なことを手がけた鴨居羊子の創作の原点を前衛の時代から探る。また、『下着ぶんか論』の出版を見守るなど親交のあった岡本太郎が撮影した写真、細江英公、井上博道らが撮影した写真も展示する。2010年・川崎市岡本太郎美術館で開催した「前衛下着道展」をベースに関連イベントである劇団唐ゼミ☆のチュニカショーと会場を舞台に見立て演劇とショーを展開する。
会期:2011年5月14日〜2011年6月12日 会場:三菱地所アルティアム・ イムズ 8F
主催:三菱地所、三菱地所アルティアム、西日本新聞社 後援 :福岡市、(財)福岡市文化芸術振興財団 企画:室井絵里
下着アヴァンギャルド・鴨居羊子の小径」の会場である三菱地所アルティアムの展示場は、映画のオープンセットのように昭和30年代の町並みを模している。天井から女性の下着が洗濯物ように吊り下げてあったりする。女の子は女の子らしくという言い方がまだ生きているとすれば、パンツに必ず印しのように付いているあの小さなリボンは何なのか。疑問符自体が成り立たないのだろうが、想像すれば、お人形と遊んだころのおままごとの大切な記憶にちがいないと思ってみるのだが、さっぱりとわからないのが本音である。
昭和29年、1954年、大阪で新聞記者から下着デザイナーに転身した鴨居羊子である。最初の下着の個展はデパートの通路で開催している。チュニカショーとして下着のショーも映画館などでやり、このショーは当時の前衛芸術家たちも参加した斬新なものであったという。白いメリヤスの下着しか無かった時代にカラフルなナイロンの下着を作り、髪を金髪に染め、様々な下着を作り、ココッティ、スキャンティなど名前をつけたのは彼女である。※
展示場真向かいの板張りの家のセットには白い布が掛けられ、鴨居羊子が監督をしたというモノクロの映画が流れている。時代を感じ、ところどころで小津の映画を思い出す。下着が明け透けに出てくる。ヌードとまではいかないが、下着を着替える女性の姿も映る。当時を思えば、この表現でも危なげに見えたはずである。交流のあった岡本太郎が撮影したという下着ファッションショウの楽屋裏での写真が見られる。おおらかな視線である。
セットの町並みからはなつかしいというよりは、ある時代の匂いを思い起こさせる。下着デザイナー・鴨居羊子は1955年にチュニック制作室COCOを設立。「W.アンダーウェア展」(大阪そごう)を開催している。COCOのネーミングは“はすっぱ”という意味の仏語だそうである。軽はずみで品は良くないが、はすっぱな娘の潔さに自分を託したのだろう。また、そのネーミングに情熱と波瀾万丈のひとであるファッションデザイナー・COCO CHANELを連想したとしても悪くはないだろう。昭和30年、1955年と言えば、まだ敗戦間もないころであり、どのような空気であったかどうかは、幼く淡い記憶のものでしかない。聞くとすれば、そのころの血気盛んであった青年に案内してもらうより方法はない。※
「旧日本軍隊というもの、それから軍国主義そのもののイデオロギーがそうだったわけですけれども、行進の足並がそろわなければひっぱたくし、鉄砲のかつぎ方が悪ければひっぱたくし、とにかくもうなにかあれば、みんなひっぱたくという規律で、鉄砲のかつぎ方で手が少しまがっていたらもうひっぱたくという、そういう規律で保たれる軍隊が、いかに弱いかということは、敗戦で、腹の底までしみわたるように、徹底的につきつけられたようにおもいます。(中略)ほんとうの強さは、そういうものじゃないんです。ガムをクチャクチャ噛みながら、鉄砲なんか逆さまにかついで、フラリフラリ行進してくるような軍隊のほうが強いということは、よくよくかんがえてみなければいけないとおもいます。軍人なんかは、日本は物量で敗れて太平洋戦争に負けたんだという弁解をしますけど、その弁解は全く嘘で、思想で負け、精神で負けたということなんです。つまりどうかんがえたって、ガムをクチャクチャ噛みながら、鉄砲を逆さまにかついで、フラフラして行進している奴のほうが絶封に強いんですよ。足並がパッパッパッパッと揃って、ちょっと足並が狂うと、足をひっぱたいて矯正するような軍隊は、いかに弱いかということを戦争に負けて、あきらかに眼の前につきつけられたのです。」※
地団駄を踏み我慢しきれずに歯を食いしばる持って行き場のないくやしさを感じるのである。思想家、詩人、評論家である吉本隆明の講演からである。小説家・吉本ばななの父上と言った方が分かり易いのだろうか。考え方についての引用ではない。どんな叙情溢れる風景描写よりも、その空気が伝わってくる。※
鴨居羊子と吉本隆明を並べて何かを論ずるというわけではない。そのような芸当ができるものでもない。ふっと感のようなものが浮かんだだけである。全く縁はないだろうが、ひとつ違いの身近な年齢であり同じ時代の空気を吸っていたわけである。男の方は一流企業に職がありつけたものの労働運動に身を捧げ退職して思想家となった。片や女の方は新聞記者を辞め美術家志望であったが、絵を描くのではなく本人が語るように女性の下着をキャンバスに表現を試みたのである。女性に対する抑圧や痛々しい誤りがこれまでの時代であっただろう。女性の下着であるズロース(drawers)を身につけるようになったのは敗戦後のことという。昭和7年、1932年の東京・日本橋の白木屋デパートで大火災があり店員であった女性の多数が亡くなった。助けのロープが渡されたものの下着を付けていない和服姿の彼女らは裾を気にして地上へと落下したのである。
誰でもが、当り前と思っていることに疑問をもってみることである。先駆者は茨の道が待っているが、つぶさに視線は送られ誰かが必ず手を差し伸べる。
「私が望む人間性、またはヒューマニズムの根本的な意識は、日本的風習----男と女のちがいをごまかし、なしくずしに生活しようとする日本的風習-----と対立します。私は性の違い、特色を公然のこととして許容することから、はじめて男女の人格の許容が全面的に果たされると思っております。女性の下着の場合、それが魅惑的な女の肉体をつつむということ、そして女の肉体の性的魅力への奉仕を率直に認めることにひきょうであってはなりません。女の下着という決定的な実体から逃避し、無視してはなりません。」鴨居羊子の1959年の新作ショウに向けてのプログラムからの文章である。本質を突くということは、難しいものである。※
絵を描く前に、現実は幽霊の集まりでできているわけではないのだから、先陣を切って髪を金髪にし際どいと言われたりもした下着をデザインした。
岡本太郎、司馬遼太郎、今東光、早川良雄、具体美術協会のメンバーらと交流し絵を描き、映画を撮り、ショウを企画する日々が流れたのである。※
会場にあったパネルの中の文章だったと記憶するが、コンテンポラリーアートが苦手だったようである。それらアートに携わる友人たちを嫌っていたわけではない。何故、他人事のようなアートをつくるの。あなたをそのままに全部見せたらいいのに。マリア・テレジア・ジャンヌ・ダーク=鴨居羊子は熱く語ったにちがいない。
チュニック制作室COCOを設立したころは鴨居羊子は30歳であった。親交のあった岡本太郎が大阪万博で“太陽の塔”を作るのは、その15年後である。このころの時代を象徴するように現東京都知事である石原慎太郎は1956年に「太陽の季節」で芥川賞作家となる。23歳、身長181センチの才気溢れる新しい日本男児の誕生である。弟の“裕ちゃん”こと石原裕次郎は兄の小説で一躍映画スターとして有名になる。“太陽族”という流行語も生まれ、どぎつい色彩の似合う欲望剥き出しかのように時代は流れて行ったのではないだろうか。日本は戦後復興を旗印に猛烈に働いたのである。その後の近年は静かなものに変わり、この勢いは衰退の一路を取り始めバブル崩壊、失われた20年という情けない流行語ももらった。物議をかもした鴨居羊子、物議をかもした“太陽の塔”。物議をかもした“太陽族”。風俗も含めてアヴァンギャルドは、荒々しい戦場の最前線に立って攻撃をしかけたのである。ガムをクチャクチャ噛みながら、鉄砲を逆さまにかついで、フラフラして行進している奴のことが身に沁みていたはずである。
※チュニック (英語:tunic, フランス語:tunique) とは、古代ギリシャ・ローマ時代からヨーロッパで使用されている衣服の呼称。現在の日本では主に、女性用のカジュアルな上衣と位置づけられている、ゆるやかな短めのワンピースのバリエーションで、丈が腰の位置から膝丈程度のものをさす。
※岡本 太郎(おかもと たろう、1911年(明治44年)2月26日 - 1996年(平成8年)1月7日)は、日本の芸術家。第二次世界大戦前の10年間をフランスで過ごし、抽象美術運動やシュルレアリスム運動と直接関わった。漫画家の岡本一平、歌人で作家・かの子との間に長男として生まれる。父一平は太郎誕生後、夏目漱石の勧めで朝日新聞社に入社し、漫画漫文という独自のスタイルを築く。
※ココ・シャネル(Coco Chanel、本名はGabrielle Bonheur Chanel:ガブリエル・ボヌール・シャネル、1883年8月19日 - 1971年1月10日)は、フランスの女性ファッションデザイナー。「ココ」は愛称で、情熱を実行すべく、お針子仕事の傍ら、歌手を志してキャバレーで歌っていた「Ko Ko Ri Ko(コケコッコウ)」と、「Qui qu'a vu Coco dans le Trocadero(トロカデロでココを見たのはだれ)」という歌の題名にちなんでつけられたもの。
※吉本 隆明(よしもと たかあき、1924年(大正13年)11月25日 - )は、思想家、詩人、評論家。日本の言論界を長年リードし、「戦後最大の思想家」と呼ばれている。漫画家のハルノ宵子は長女。 作家のよしもとばななは次女。引用した講演記録は「智の岸辺へ」1976年、弓立社刊より。
※ヒューマニズム:一般的には、人間の本質的価値の伸長を目的とする精神傾向のすべてを言う。(「立体フランス文学」篠沢秀夫 著、1970年、朝日出版者刊)
※太陽の塔は、大阪万博のテーマ館のシンボルとして建造され、万博終了後も引き続き万博記念公園に残された。岡本太郎の代表作の1つである。当時の知識人たちから「日本の恥辱」などと痛烈な批判を浴びた。しかし太郎は、「文明の進歩に反比例し、人の心がどんどん貧しくなっていく現代に対するアンチテーゼとしてこの塔を作ったのだ」と反論した。主催者が塔の内部に歴史上の偉人の写真を並べるつもりだったのに対し、太郎は「世界を支えているのは無名の人たちである」として、無名の人々の写真や民具を並べるよう提言した。
※具体美術協会(ぐたいびじゅつきょうかい、具体美術、具体、GUTAIとも)は戦前から活躍していた前衛画家・吉原治良を中心に1954年に兵庫県芦屋市で結成した団体。1970年ころの”九州派”もその流れであったのかも知れない。ハプニングという言葉がなつかしい響きである。
※1959年の新作ショウプログラム後半文章から。
※画像は右上/鴨居羊子作の人形(多羅尾牧洋撮影)。右下/岡本太郎撮影のショウでの楽屋裏。
三菱地所アルティアム
「フェイス(s)+ 権力者達」オリヴィエ・ロレール写真展 « Les figures du pouvoir »
Exposition du portraitiste Olivier Roller qui révèle au travers de ses œuvres la véritable identité des hommes qui détiennent le pouvoir.
-Vernissage : samedi 22 janvier à 18h.
-Date : Du samedi 22 janvier au samedi 19 février.
-Lieu : Galerie de l’Institut franco-japonais du Kyushu (5ème étage)
-Entrée gratuite
-Pour tous renseignements : Institut franco-japonais du Kyushu (Tel : 092-712-0904)
Olivier Roller est considéré comme le portraitiste attitré des hommes de pouvoir et d’influence. Dans la plupart de ses œuvres, il s’interroge sur le véritable visage des hommes de pouvoir dans notre époque contemporaine, et ses clichés sont réalisés de sorte à ce que le pouvoir disparaisse pour laisser place à la véritable identité de ses sujets.
Olivier Roller au travers de ses photographies choisit des hommes des médias, de la finance ou de la bureaucratie, et il fait disparaître tous stéréotypes pour capturer fidèlement les visages. Aucun signe distinctif ni marqueur social, arrière plan réduit à son minimum, seul le visage en gros plan nous apparait.
Cela est bien entendu volontaire et s’inscrit dans la démarche de l’artiste. Les photographies exposées sont magnifiques. Le photographe a pu laisser place à son imagination. Avec les techniques modernes, les tirages sont lisses et légers comme l’air et cette association avec les photographies très caractéristiques de l’artiste nous saute immédiatement aux yeux.
La couleur de la peau et des chairs est saturée. La caractéristique de ces occidentaux capturés de profil tient à leur expression très nuancée, comparable à des sculptures. L’objectif du photographe a capturé ces figures du pouvoir qui ressemblent à s’y méprendre à des statues antiques que l’on vénérait dans les temples. Le charme de ces nuances et de ces ombres est sans conteste ce qui constitue l’attrait pour les occidentaux. Cheveux soyeux légèrement ondulés, iris d’un vert profond qui tend vers le gris, nez aiguisé et anguleux, cheveux épais sont des exemples qui constituent cette majesté dans leurs apparences.
Etudiant en sciences politiques, Olivier Roller s’amourache du Nikon de sa petite amie. Il abandonne alors l’idée de devenir professeur. Il a trouvé son langage, la photographie. En 2007, il commence sa grande fresque Figures du pouvoir, portraits des réseaux du pouvoir et de l’influence en France en ce début de 21e siècle. Ses portraits sont publiés dans de nombreux magazines tels que Le Monde, Libération, Marianne, Nikkei magazine, Der Zeit et Times magazine.
Je pense qu’Olivier Roller est un portraitiste qui possède une qualité unique. Sa technique, si elle était utilisée dans les magazines, pourrait sûrement convenir également à cet exercice de style avec un peu de préparation.
On dit qu’Olivier Roller s’écarte des stéréotypes, mais ne serait-ce pas justement le contraire ? Le fait de capturer des gens de pouvoir est déjà intéressant en soi, mais ce jeu de nuances sur ces visages occidentaux donnant l’impression qu’ils sont sculptés est vraiment appréciable.
Pour illustrer ce que j’entends par stéréotype, il faut repenser à la grande époque hollywoodienne avec les péplums de la Rome antique. Je me rappelle du film« Ben Hur » réalisé en 1959 par William Wyler. Le physique de Charlon Heston, dont les formes ciselées étaient comparables à ceux d’une sculpture, constitue sans aucun doute l’un des grands attraits du film et représente bien ce charme occidental. Ben-Hur et son ami d’enfance Messala ont une apparence qui conviendrait parfaitement au style d’Olivier Roller. Ce serait sans doute passionnant si l’artiste s’intéressait également à l’empereur Néron.
Cela ne se limite heureusement pas uniquement aux portraits d’hommes. On trouve également une photo de l’actrice française Jeanne Moreau qui pose avec le photographe.
Pour le coup, il ne s’agit pas d’une photo stéréotypée, mais cette pose où l’actrice tient sa cigarette nous reste en mémoire.
Olivier Roller a bien conscience du fait qu’il n’est pas le seul ayant ce désir de faire exister, mais il n’en demeure pas moins que son travail est réellement intéressant.
http://www.olivierroller.com
九州日仏学館
「フェイス(s)+ 権力者達」オリヴィエ・ロレール写真展 « Les figures du pouvoir »
現代の権力者達の顔に疑問を投げかけ、彼らの真のアイデンティティを映し出すように構成する作品が印象的な、肖像写真家・オリヴィエ・ロレールの写真展。
オープニング・パーティー:1月22日(土)18:00
会期:2011年1月22日(土)~2月19日(土)
会場:九州日仏学館5Fギャラリー
入場無料
お問い合わせ:九州日仏学館(Tel: 092-712-0904)
オリヴィエ・ロレールは、特権階級の人たちを撮る肖像写真家と言われているそうである。主な作品群は、現代の権威の顔に疑問を投げかけて、つまり、彼らからその権力のイメージを取り除き、その素顔を映し出す肖像画である。彼は、時代を切りとる題材として広告業者、財界人、官僚達を選び、ステレオタイプのイメージから逸脱した彼らの素顔に迫るのである。
会場に飾れたプリントは美しい。写真家が駆使するのは彼の脳髄のみである。技術の発達によって、限りになく空気のように軽い滑らかな美しい紙に美しい肖像写真が独特の翳りを伴って目の前にある。統一の彩度にまとめられた皮膚の色、西洋人独特の、彫刻のようなというにふさわしい表現の陰影でもってプロフィールは捉えられているのである。予想通りに古代神殿に奉られていた彫像も現代の特権階級と呼ばれる人物と同一に、レンズに収められシャッターは押されている。陰影と翳りの妙味は彼ら白人人種の魅力である。柔らかそうな毛髪は軽く巻かれ、瞳は深いグリーンであったり淡い影と間違いでもしそうなグレイであったりする。鼻はするどく鋭角であり、濃い髭などは骨格に沿って具合よく彼らの威厳ある風貌を整えているのである。
政治学の学生だったオリヴィエ・ロレールは、恋人が持っていたニコンの虜になった。教師になる考えを捨て写真という自分自身の言語を見出す。そして、2007年より、彼の代表的作品となる21世紀の初頭にフランスに影響を与えた権力者達の肖像写真「フェイス(s)+ 権力者達」を撮り始めた。
彼の作品は、現在、ル・モンド、リベラシオン、マリアンヌ、日経マガジン、デル・ザイト、タイムズ・マガジンといった世界中の多くの紙面に掲載されているのだが、オリヴィエ・ロレールは、一種独特の上質の意味で言うスタイリッシュな肖像写真を編出したのだと思う。もし、モード雑誌のようなロゴタイプを被せたとしても、あらかじめ用意されたかのようにピタリと当て嵌まるだろう。
オリヴィエ・ロレールは「ステレオタイプのイメージから逸脱した彼らの素顔に迫る」と言われてはいるが、いやむしろ、その逆だろう。拭い難い彼ら人物のブランド力こそが魅力であり、彫り深い顔立ちをした西洋人の陰影と風格を讃えているのである。
最後に、ステレオタイプというイメージで言えば、1959年に公開されたハリウッド製古代ローマ劇であるウィリアム・ワイラー監督の『ベン・ハー』を思い浮かべる。主役を演じたチャールトン・ヘストンの正しく彫刻のような肉体美と彫りの深い風貌は西洋人の魅力であった。壮大なオーケストラを従えたキリスト劇は西方が舞台である。ジュダ=ベン・ハーと旧友メッサーラにピタリと当て嵌まる風貌がオリヴィエ・ロレールの肖像写真の中にもあると思うのである。つい、皇帝ネロに似合う風貌はないかと探してしまう。※
男ばかりでは困る。オリヴィエ・ロレール彼自身とフランス女優のジャンヌ・モローの写真がある。やはりここに落ち着くのかなと思う。飛び跳ねた感じが似合う女優ではない。風貌ではなく心の陰影や翳りが似合う女優である。ここにはステレオタイプのイメージはない。煙草をくわえたポーズが印象的に残る。ひとの存在感といったものに憧れを持つのは、オリヴィエ・ロレールだけではないということを彼自身がよく知っているだけに魅力のある肖像写真が生まれるのであろう。※
※追記である。ここにあるのは、名付ければフランスの強烈な自我の肖像画である。何人たりともわたしの存在を蔑ろにはできない。わたしは、他の誰でもないわたしである。わたしは疑いようもなく存在をし思うから、思うわたしであるが故に、わたしは容赦なく存在する。とでも言えば良いのだろうか。
※『ベン・ハー』(Ben-Hur)とは1959年制作のアメリカ映画である。ルー・ウォーレスによる小説『ベン・ハー』の3度目の映画化作品である。ウィリアム・ワイラーがメガホンを取った。主人公ベン・ハーを演じたチャールトン・ヘストン、メッサーラを演じたスティーヴン・ボイドたちの名声を一気に高めた作品ともなった。なお撮影の多くはイタリアのローマにある大規模映画スタジオである「チネチッタ」で行われた。※皇帝ネロ(37年12月15日 - 68年6月9日)またはネロ・クラウディウス・カエサル・ドルスス・ゲルマニクスはローマ帝国の第5代皇帝。ローマを暴政の下に混乱させ、キリスト教徒を迫害したため暴君の典型とされる。
※ジャンヌ・モロー(Jeanne Moreau、1928年1月23日 - )は、フランスの女優・歌手。パリにて、フランス人の父親とイギリス人(イングランド・ランカシャー州出身)の母親の間に生まれる。パリのフランス国立高等演劇学校 (コンセルヴァトワール)で演技を学び、1948年にデビュー。ルイ・マルやフランソワ・トリュフォーなど、ヌーヴェルヴァーグ時代の監督達の作品が印象的。
九州日仏学館
野村佐紀子 写真展 ------------- 黄金虫
野村佐紀子 1967年 山口県下関市生まれ。1990年 九州産業大学芸術学部写真学科卒業。1991年 写真家荒木経惟師事。1993年 個展、グループ展を多数開催し、国際的に活動している。
会期:2009年9月28日~10月31日
会場:アートスペース 貘
お問い合わせ:福岡市中央区天神1-13-17 NIKKEN ビル 092-714-1721
どこかで見た写真だなと思って覗いた。会場のアートスペース 貘は、本店が大学のそばにあったのでよく覚えている。ギャラリーのオーナーであると思われる女性の方が、会場のある入口でもたもたしているところで出迎えて下さった。土曜日ということで、ビルのセキュリティのせいで戸惑ったのだ。お辞儀を何度もなさった。ありがたく思い恐縮した。
最初の印象というのは大変大事である。それが間違っていても一生付き合うことになる。野村佐紀子の写真は福岡市中央区にある商業ビルのイベントスペースで見たことがある。普通に、今、目の前で裸の男と女がベッドの上でからみあっている中に自分も今しがたまで加わっていたかのような錯覚になる生臭い匂いのする写真だと思って見た記憶がある。たまたま雑誌を整理していたら、その時のチラシが出てきた。解説が載っている。
女流写真家。主に男性ヌードをモチーフに、何気ない日常の中の微かな「けはい」と「きおく」を私的なメモとして撮リ続ける。「裸」にこだわる彼女は、「裸体」をたんなるイメージとして撮るのではなく、「裸」であることで主まれてくる、被写体との確かな時間と濃密な関係性を記録する。そこには被写体の体温と呼吸が焼きつけられ、「性」がSEXを超えた生の存在感として引き出されている。レンズの前という「非日常」と本来の「日常」のあいだで揺れ動く裸の男女,かすかな勇気と不安のさなかで彼らが見せる揺らぎやじれを、野村佐紀子は可能なかぎりの余白をもっで受けとめようと試みる。....... ※
視覚表現をテキストに置換えるのは難しい。分からなくもないが、益々分からなくなる。ならばと方法を考えてみたところで所詮無駄なような気がするのである。一目瞭然これに過ぎるものはないようだ。
何かを探るには、資料は多ければ多いほど良い。このチラシにはカラーで一点の写真が組み込まれている。寝室と思われる設定で枕元のスタンドの光りのみで撮影されたのであろう。ほとんどシャドウでつぶれた裸電球の赤茶けたような画像である。ベッドの上に横たわる裸の人間があるようにも見えるし無いようにも見える。日常の生活は撮影現場のようにアングルが決められ絵コンテのようなものがありスタッフが気遣い、わたしたちは動いていたり、そこに在るわけではない。机の右端に雑誌が山積みされ足下には脱ぎっぱなしの靴下があり、はて、俺の眼鏡はどこだったかなとでもいうような程度のこんなものが日常であり視点というものがないのである。とりとめもなく、そして永遠にとりとめもない風景があり決して自分のものにはならないのが、今、目の前に在る日常である。野村佐紀子は本能的とでも言えるように嘘くさい映像が嫌なのだと思う。作家のモチーフは重く澱んだ視点などとは無縁の日常の中の仄暗い世界であるようである。暗闇は屋外であれ室内であれ夜であれ昼間であれ必ず在り、暗いところから明るいところへの階調の中でものの形は捉えられ認識されている。試しにデジカメで机の廻りなぞ撮影してみたら良い。極めるということは簡単なことではない。
There is something to trace a man's body at dimly-lit room.
Scenes and flowers there fading away in a light are giving us a glimpse of the world.
The light shines momentary in eternal darkness .
Shuttered inside is appearing with clear outline and the rest of darkness propagates infinitely.
Susan Sontag mentioned, arts are longing how photography is.
I feel the possibility of photography as the code between passing time and the world in selves.
仄暗い部屋に 人のかたちがある
一点のあかりに救われるかのように
遠くの風景や そこに在る花は
この世界を覗かせようという仕業の者たちか
無限の暗闇の中に一瞬の光がさす
とざされていた内部が強い輪郭として出現する
残された闇は また無数に増殖されていく
「すべての芸術は写真に憧れる」(スーザンソンダク)という
過ぎゆく時間を自己の世界に置き換えて表現できる可能性は大きい ※
野村佐紀子は男性ヌードの写真家というのがもっぱらの通念だそうだが、どうでも良いことだと作家は胸の内で言っているかもしれない。裸と言えば女、そしてグラビア。男の欲望の数だけ女の裸の写真はあるのだが、そのような世界ではない。野村佐紀子は単に裸の写真を撮っているわけではない。横たわった裸とともに在る、あの仄暗い影の中に在る"いやらしさ"や生の性が蠢いている様を頭の中にある知性とでもいうべき絵コンテにクロッキーをしシャッターを押すのである。今回のアートスペース 貘での「黄金虫」の写真は光りの入る隙間もない程に暗い。ネガを見ているような感じさえある。こう言って良ければ挑戦かも知れない。この暗闇に何を読み取るかというより、作家の"写真技術"が見せてくれる暗闇の世界の方に興味が湧く。人間は分からないことがあると知ろうとする。そして、終いには飽きるが、これは誰にでもついて廻ることである。その儚さとか物憂いさも知りつくした写真が見たいと見る側は勝手なことを言う。今、黄金虫が飛んで来たような気がした。あの、ぬるぬるとした光りは例えようがない。
※VIOROヴィオロストリートミュジアム、野村佐紀子展 2008年1月17日〜2月17日 提供:ウェディングアイランドマリゾン 企画:CAPSS Akiko Nagasawa Publishing による。
※「アートスペース貘」主宰・小田律子 記。
※スーザン・ソンダク : スーザン・ソンタグ(Susan Sontag, 1933年1月16日 - 2004年12月28日)は、アメリカの著名な作家、エッセイスト、小説家、知識人、映画製作者、運動家。人権問題についての活発な著述と発言でその生涯を通じてオピニオンリーダーとして注目を浴びた。批評家としてベトナム戦争やイラク戦争に反対し、アメリカを代表するリベラル派の知識人として活躍した。2003年にドイツ出版協会の平和賞を受賞している。ソンタグの根本的なスタイルは固定観念を持つことを避けることにあった。ジェーン・フォンダのようにハノイには行ったものの、彼女と違い反戦運動をするわけではなく、「戦場を目の当たりにして感じた嫌悪感について書く」ことに専念した。一方で、晩年コソボ空爆への武力行使を支持した。2004年12月28日、骨髄異形成症候群の合併症から急性骨髄性白血病を併発し、ニューヨークで死去。71歳。彼女は30年間、進行性乳癌と子宮癌を患っていた。遺体はパリ・モンパルナスの共同墓地に埋葬された。
アートスペース貘
IMS BIRTH FESTA 2011 / GROOVISIONS FUK

デザインチーム・groovisions(グルーヴィジョンズ)の福岡初個展。これまでに手掛けてきた作品のアーカイブを一堂に公開する。三菱地所アルティアムでは、1993年の結成以来、国内外のクリエイティブ、カルチャーシーンにおいて常に話題を集め続けてきたgroovisions(グルーヴィジョンズ)の展覧会を開催する。本展では、彼らの多岐に渡るデザインワークを一堂に配したインスタレーションを紹介。コーポレート、プロダクトデザイン、モーション・グラフィックス作品、数多く手掛けてきたミュージシャンPVとアルバムジャケットなど、これまでの作品を網羅した内容となっている。また、本展に合わせ制作された福岡新作も展示する。ポップで洗練されたデザインによって、多くのファンを獲得してきたgroovisionsの近年の集大成とも言える本展である。
groovisions / 東京のデザインチーム。グラフィックやムービー制作を中心に、音楽、出版、プロダクト、インテリア、ファッション、ウェブなど多様な領域で活動する。1993年京都で活動開始。PIZZICATO FIVEのステージヴィジュアルなどにより注目を集める。
1997年東京に拠点を移動。以降、主な活動として、リップスライム、FPM(Fantastic Plastic Machine)などの、CDパッケージやPVのアートディレクション、100%ChocolateCafe.をはじめとする様々なブランドのVI、CI、『Metro min』誌などのアートディレクションやエディトリアルデザイン、メゾンエルメスのウィンドウディスプレイのディレクション、『ノースフェイス展』など展覧会でのアートディレクション、EXPO 2005 AICHI JAPAN 愛・地球博や農林水産省の映像資料でのモーショングラフィック制作などがあげられる。
会期:2011年3月16日〜2011年5月8日 会場:三菱地所アルティアム・ イムズ 8F
「わたしは、つぎつぎ、やってくる。」無意識に出た文節かも知れないが、デザインチーム・groovisions(グルーヴィジョンズ)の全体をうまく表現している。福岡市天神イムズビルの巨大Chappieプロジェクト『Arrival & Departure 2011』のポスターにある広告文の一行である。※ そして更に、コピーのコピーのコピーのコピーのコピーのコピーから生まれたであろうデジタルな感性によって、幾つ作っても遜色無く大きく目を見開いた女の子のような男の子のようでもある女の子が紙面いっぱいに並んでいるgroovisions FUKの個展用ポスターがある。ポップカルチャーはコンピューターによって更に精度を増したのである。※
大きな目のキャラクターと言えば、あまりにも有名な鉄腕アトムもまた大きな目をしている。しかし、彼は瞬きもすれば目を閉じて眠りもする。時には涙も浮かべるのである。かけがえの無いAIという命をもって生まれた心優しい少年である。だから、コピーはできない。もしコピーが現われたら戦いを挑むだろうか。さあ、僕のにせもの君。かかってこい。だけど、やっぱり、君を殴れないよ。と、しょんぼりと彼は言う。もうよそうよ。君も悪いことをしちゃだめだよ。にせもの君も、きっと、ごめん、と言うだろう。何たって彼は地球を救うというミッションを背負っているからである。※
groovisionsのChappie(チャッピー)は、もっと身近だ。男の子を救うというミッションを背負っている。そして、サクサクッと作られたありふれた日常の極々どこにでもいるような女の子である。つまり、普通の現実を僕等といっしょに過ごしている。だから、親切にもブラとショーツ姿のChappieも用意されている。昨今の男の子はアニメのキャラに恋いするというが、度を超さねば人生は短いようで長いから楽しめば良かろうとも思うのである。軽いと感想を述べているのではない。切ないものを感じるのだ。現われて消え、現われては消える、陽炎のような日常の中のChappieという女の子のような男の子のようでもある女の子に愛情を感じるのだ。みんな生きていてなんぼの世界である。Chappieの太ももからお尻、そして、腰のくびれに手を這わせてみよう。もしかすると、柔らかい肉を感じるかも知れない。白い肌に薄らと透ける青い静脈は生きていればこその喜びである。
Cool Japanという風聞のような言い表しがあるが、正しくgroovisionsは、そのような世界の一部を代表しているようだ。※ 何でも作る。器用である。三菱地所アルティアムの会場に入ると作品の位置と名前が分かるようにと配置図が配られる。つまり、作られた物が多いという証拠である。グラフィックやムービー制作を中心に、音楽、出版、プロダクト、インテリア、ファッション、ウェブなど多様な領域で活動するとアルティアムの紹介にあるのだが、多種に渡る。仕事で作られたのである。仕事として繁盛している。ピカピカに磨かれた感性が見事に花を咲かせている。言わば現代の物のテンプレートのように、である。それはTokyoからの発信であり、その神話は未だ揺るがない。※
様々な物は欠片の魂の温もりを感じさせないように作られている。何故なら、ピュアとは無垢では無く何も無いことだからである。何かを感じさせれば、物では無くなるからだ。そのうまさがgroovisionsの世界である。サクサクッとコンピューターが介在して誰にでも作れそうだが、そうはいかない。才能はやはり要る。風聞に寄れば、彼らチームはDJがスタートであるということらしい。流行りの音楽のようにリズムをもって彼らは哲学を持ち生きて来たのである。”たった今”が彼らのコンセプトである。明日ではなく、たった今である。だから、「わたしは、つぎつぎ、やってくる。」のである。※
「Chappie 」(C)GROOVISIONS
※天神イムズイベント『Arrival & Departure 2011』/ 出発」や「再出発」の象徴として、「エアポート」をイメージした空間に身長15mの巨大Chappieがそびえ立つ。今回のプロジェクトのためだけにgroovisionsが手がけたオリジナルデザインである。※ポップカルチャー / 大衆文化(たいしゅうぶんか)、ポップカルチャー(英語: pop culture)とは、ハイカルチャー(文学、美術など)に対して、一般大衆が広く愛好する文化のことである。一方、マニアックな分野を指す言葉としてサブカルチャーという言葉がある。こちらは大衆文化とハイカルチャー双方に跨ってマイナーな領域を示している。 ただしこれらの概念も時代的な変遷があり、厳密な定義は困難である
※鉄腕アトム / 『鉄腕アトム』(てつわんアトム、日本での英題はMighty Atom)は、手塚治虫のSF漫画作品及び同作を原作としたテレビアニメ、特撮テレビ番組の作品名、並びに作品内の主人公である架空のロボットの名称である。※AI / 人工知能。同名の映画もある。※Cool Japan /クールジャパン(Cool Japan)とは日本の文化面でのソフト領域が国際的に評価されている現象、またはそれらのコンテンツそのものを指す用語。※感性 / 感性(かんせい、英: Sensibility)は、人間の持つ知覚的な能力のひとつである。感性とは、美や善などの評価判断に関する印象の内包的な意味を知覚する能力と言える。これは非言語的、無意識的、直感的なものであり、感性についての研究は古くは美学や芸術学などで行われてきたものである。
三菱地所アルティアム
www.groovisions.com
フォトイリュージョン 中居真理の表現について
中居真理 NAKAI MARI1981年生まれ 京都精華大学デザイン学部卒業 京都市在住
[個展]
2005年 まばたき (WHITECUBE OSAKA / 大阪)
[グループ展]
2007年 谷口陽子・中居真理 写真2人展(同時代ギャラリー / 京都)2008年 Art Court Frontier #6(ARTCOURT Gallery / 大阪)2009年 now here,nowhere(京都芸術センター / 京都)
※近況については、作家のホームページを参照されたい。
眩しい日差しがある。雲は分厚く真夏を思わせる。視界には樹々が暗く影となり、ある空間を形づくるのにふさわしい要素となっている。空には絵が描ける。ひとの立つところには必ず、ある目印がある。夕暮れには空は朱に染まり、二羽の鳥が窓辺に舞い降りる。わたしのそばまでは、もうすぐである。影は覆うことでしか役に立たないが、空の青さは在るということでしか、その存在を確かめることはできない。影を刳り貫くと今朝の下界の様子が分かるというのか。夕暮れという谷底に帰る日が来るに違いないからだ。
このように中居真理のphotographシリーズには、言葉にならないある世界を見る者に語らせようとする趣がある。ある一瞬の情報をシャッターと共に意図されたイメージへとつくり上げるのであり、このことがアーティストと言われる所以であり、絶えずメタファーを効かせ駆使し対象を捉えるのである。※
水面にオーガニックな装飾が見える、樹々に纏わりつくやわらかな綿のような白い光、影が襲う緑の地面、明らかに繊細な赤と淡い灰色に挟まれた弦月、モネの睡蓮のかけら、淡い小さな青と白と灰色のクールな配色見本。わたしの目に刻まれた、誰もがうかがい知れない映像である。
photographと呼ばれるこの無題の作品群は、中居真理のサイトのトップに掲げられた淡い空の写真が、その特徴を代表している。ある旅行の終わりに、その地を離れるのが寂しく思い飛行場で頭の上にカメラを置きシャッターを押した。儚げな写真は儚げに切り取られている。芸術表現には日常の個人的な情感も含まれているのはもちろん、たった今の潜在する趣向や意識や貘とした世界観、そして、表現者の知性も含めながら露出してくる。ひとの生き死に於いて翻弄される部分は部分として表現の一部として現れる。表現への欲求と現実のひとの生き死には噛み合ない様も多々ある。折り合いを求めることもあるだろう。土に種が落ち芽吹き花を咲かせる。
中居は2007年頃からpatternと呼ばれる作品をつくり始める。
pattern、つまり紋様である。それぞれに連鎖の要素もった地紋を敷き詰めた紋様は無限の背景を感じさせる。伝統の中の多くの紋様は既知の具象性から生み出された物が大半であり、その背景にある深い意味合いに重点が置かれている場合もある。全体の調和が重要である。
代表される作品にstripeとgingham checkがある。
一見ランダムに見えるが綿密に計算されていることが次第に分かるだろう。タイトルはstripeである。一辺が100×100mmの横断歩道の写真を969枚並べて制作されている。横断歩道の撮影は時間帯や天候を変え、横断歩道の質感や色の変化をテクスチャーの一部としている。ところどころ色が違うのは、そのためである。このような画像の要素はシーケンス(Sequence)と呼ばれ、時間の経過を表現するデザイン上の方法論に見ることができるが、中居は別なイメージへと展開をする。この作品は、これらのテクスチャーが集合するところに意味があり左右に広がるに連れstripeは太くなるように計算され配置されている。エネルギーを感じる動きが生まれる。テクスチャーの質感や色の変化もその動きを補足する。その大きさは高さが5メートル、巾2メートルにもなりマチエールが盛り上がる巨大な絵画にも思えてくる。
gingham checkはなぞらえる世界である。建物などの角をアクソノメトリック(Axonometric)投影に見える角度から撮影をし、正方形に切り取り、その一片を多数組み合せてgingham checkになぞらえる作品である。撮影された角は正方形にトリミングされたことにより写真の具象性を逆に擬似的に立体化したグラフィックように思わせながら、実は写真であるという微妙な階調を持つ具象性が反発し、それぞれの一片を浮き上がったようにも見せる面白い作品である。間近で見れば明らかに現実の色彩や影の階調を持った物の角である。このように、これら両作品は見る側に心地よい裏切りを感じさせながら色彩のイリュージョンを魅力的に見せてくれるのである。
更に言えば、ここに来て初めて幻視とでもいった世界を垣間見せてくれるphotographシリーズとのつながりが明らかになるのである。では、何がつながりなのか。無題のphotographからpatternへとフレームを用意しながら下ろすと言う作業である。それは、たぶんに、誰でもが忘れ去ってしまった経験という名に於いて幼児が初めて言葉を発する時の瑞々しさである。言葉以前には認識は無いのである。中居真理は写真表現に於いて新たな現代アートを提示してくれたのである。
近々、中居真理は“patterns”という個展を開く。ここでは、前出のstripeとgingham checkのそれぞれの作品の中で構成され配置された正方形のテクスチャーである一片を並べ替えるという再構成の作品を展示する。正方形の一片は連鎖を解かれ各々は独立する。想像するに、そこでは具象性は消え写真であるかさえ判別できず、光と影と色彩だけが残る名前のない正方形の一片が多く壁面に並ぶことになろう。なぜなら、全体の中の一片という構成理由が無くなるからである。また、既知の意味を読み取ってしまうという意のゲシュタルト要因が、どこまで削り取られているかによって、この再構成の美学的意図はより見えてくるだろうし、深くデザインの計画性に関わっているに違いないとも思えてくるのである。
※メタファー(metaphor)は、隠喩(いんゆ)、暗喩(あんゆ)ともいい、比喩の一種でありながら、比喩であることを明示する形式ではないものを指す。つまり、「~のようだ」のような形式だけであからさまに比喩とわかる比喩(=simile直喩)ではないもののことである。例えば、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっていれば、その人は実をゆたかに結ぶ。」– 新約聖書、『ヨハネによる福音書』 イエスの言葉より。ことばだけに限らず絵画、映画などの視覚表現にも用いる。
※作品画像はpatternより。(copyright © 2009 nakaimari)アクソメはインテリア用語としてよく用いられるそうであるが、その角度がよくわかる作品である。多くの作品については、下記の作家のホームページを参照されたい。
nakai mari
Lieko Shiga / カナリア門 志賀理江子展

1980年、愛知県生まれ。2004年にロンドン大学チェルシー・カレッジ・オブ・アートを卒業。その後もロンドンで制作を続け、06年よりベルリンに拠点を移した後帰国。08年、写真集『Lilly』(アートビートパブリッシャーズ)、『CANARY』(赤々舎)で第33回木村伊兵衛賞を受賞。主な個展に「浮遊する出来事」(03年 グラフメディアジーエム/大阪)、「リリー」(05年 グラフメディアジーエム/大阪)など。09年にはNY ICPインフィニティアワード新人賞を受賞、2010年愛知トリエンナーレ参加。現在は宮城県にアトリエを構え、滞在制作を続けている。
会期:2011年2月19日〜2011年3月11日 会場:三菱地所アルティアム・ イムズ 8F お問い合わせ:三菱地所アルティアム(Tel 092-733-2050)
若手写真家・志賀理江子は被写体を捉える独自のアプローチと不思議な異空間を思わせる構成写真で、新たな写真表現を切り開いている。ロンドンにて写真家としてのスタートを踏み、2008年に出版された写真集『Lilly』(アートビートパブリッシャーズ)と『CANARY』(赤々舎)の2冊で、第33回木村伊兵衛写真賞を受賞。以来、最も期待される写真家の一人として注目を集めている。代表作『CANARY』は、仙台、オーストラリア、シンガポールで住民達に「自分の住む地域で感じる <明るい場所>と<暗い場所>はどこか?」という質問をアンケートを取って取材し、その答えの場所を実際に訪れ、思索に導かれて制作を行った作品シリーズである。地域・場所を知り、そこで感じた“イメージ”を自身の中で発酵させる時間を経て、自らの“イメージ”に基づいて被写体を舞台セットの様に構成し、撮影をする。試行錯誤の末に生み出された『CANARY』シリーズの作品は、不思議な異空間のごとき世界観である。
志賀理江子はよく夢を見るひとなのだろう。否、若い女は全体によく夢を見るのかも知れない。生臭い夢を。ただ漠然とそう思うだけである。夜寝ていると男がわたしの体を触らせろと言う。勝手にしたらというふうな返事をする。男はわたしの体をくまなく弄る。股にびっしょりと汗をかいていた。えいっ、こんな体くれてやる。どこかの雑誌で若い女優が素裸になって演技をしたことに触れて、同じような下りがあったのを思う。えいっ、こんな体くれてやる。遠い記憶になってしまったが、好きな女にキスをしたら甘くてきれいな味がした。むさぼった後、檸檬でも食べたかと聞いたら、そうではないと言う。何にせよ、甘酸っぱいものが漂うのである。見上げるビルと紛う巨大な滑車が糸を引いていて、わたしは恐怖で目がさめる。今夜もこの夢を見るのかと思うと怖い。雪を背景にNORTH FACEのダウンを羽織った作家が写っている。ちょっとはにかんだ表情の端正な瓜実顔である。

宙づりになった女「千愛子」。真下に眠っている男の頬に女のおでこがくっついている。切ない情感が伝わってくる作品である。ひとの男女は互いに頬とおでこをくっつけて愛情を表現する。くっつきたいのは他ならぬ場所もあるが、おでこと頬もくっつく。この世には男と女しかいないということは分かりきっている。なのに、そうは思わないひとの浅はかさもある。「わたしの夫」は未来の夫かも知れないのだ。大きな頭蓋骨をもったひとはやさしいと聞く。首から上は大事である。寄り添うということがこんなにも大事なこととは知らなかった。そう思うのである。※
写真は一見レタッチソフトなどで細工したのではないかと思う向きもあるかも知れないが、実際には女をロープのようなもので吊り下げた。次第に体の重みは頭に集中し写真になった。では、画像加工の写真との差はあるのか。現実の「千愛子」は元々が宙に浮いていたのだろう。作家はそう見たのである。「わたしの夫」も荒野に転がっていた動物の頭の骨に似せて石膏で大きく作った。何よりも作家の姿勢は生の自分の足跡である。
最近人形浄瑠璃や歌舞伎を見る機会が続いた。席は花道のちょうど斜め上。一階席とはもちろん舞台を見る角度は違ってくる。迫ってくる花道の女形は斜め上からでも背が高く艶かしい。舞台のほぼ中央にいる修行僧は旅姿の笠で顔は見えないが、魔界に偶した孤独な具合が上の角度からよく感じられた。ひとの想像力を喚起する生の舞台は目に心地よいものである。※
写真が演じて見せるのは舞台のように直接的ではないが、志賀理江子は、その実感の境地を何よりも本来は好むのだろう。偶然に高校の体育祭で手にした普通に誰でもが手にするオートフォーカスのカメラから始まったのである。徒とも思えた写真は魔法の光と知性によって風格を得たのである。※
三菱地所アルティアムに繰広げられた「カナリア門」という作品群は、お世辞にも心地よい風景が写る写真ではないが、暗に隠された、否、怠惰になった我々の感性を刺激しているのである。皮を剥がれたクマの写真である「毛皮を着たひと」は、誰の中にも眠っているのである。この作品のための道中、またぎの親方とその仲間の荒っぽい会話である。「おまえ、玉持ってるか」、「二つある」。男の連中はどっと笑う。射殺されたクマの解体に付き合う当の私の体には玉がないと彼女は静かに思うのである。
※画像は上から:千愛子/Chiako「CANARY」(C)Lieko Shiga :私の夫/My Hasband「CANARY」(C)Lieko Shiga
※全体に文中の志賀理江子らしきモノローグのような記述は、会場に展示されていた冊子「カナリア門」からのおぼろげな読後の記憶からの想像も加えた増幅された記述である。さほど外れてはいないだろう。※福岡市の「博多座」で見たものである。女形は坂東玉三郎、修行僧は中村獅童。演目は古典と創作もの。※「ひとことも言わずに、どんなときでも、魔法の光」。マックス・エルンスト「百頭女」から。岸谷國士 訳。昭和49年初版。河出書房新社 刊。※マックス・エルンスト / (Max Ernst, 1891年4月2日 - 1976年4月1日)は、20世紀のドイツ人画家・彫刻家。ドイツのケルン近郊のブリュールに生まれ、のち、フランスに帰化。エルンストは、ダダイズムを経ての超現実主義(シュルレアリスム)の最も代表的な画家の1人である。作風は多岐にわたり、フロッタージュ(こすり出し)、コラージュ、デカルコマニーなどの技法を駆使している。※またぎは東北地方・北海道で古い方法を用いて集団で狩猟を行う狩猟者集団。一般にはクマ獲り猟師として知られる。古くは山立(やまだち)といった。マタギの語源は諸説あって不明である。最も有力なものは、アイヌ語で「冬の人」・狩猟を意味するマタンギ・マタンギトノがなまったものだという説である。
三菱地所アルティアム
www.liekoshiga.com
展
宮島達男「その人と思想」展 宮島達男は何を考え、どう生きたのか。

「それは変化しつづける」「それはあらゆるものと関係を結ぶ」「それは永遠に続く」という三つの制作コンセプトのもと、人間のライフ・サイクルの連続性や永遠性を示したLEDの作品で国際的な評価を受けている宮島。しかしアーティストとしての活動の根源が80年代前半に展開されたパフォーマンスにあることは意外に知られてない。本展では、そのパフォーマンスの記録写真・映像、初期オブジェ、ドローイング、LEDを用いた代表的なインスタレーションを介してアーティスト宮島達男が今日まで辿ってきた創作の過程、その思想の変遷を検証する。※

1957年東京生まれ。東京芸術大学大学院美学研究科修了。「1」から「9」までの数字を使ったデジタル・カウンタ-の作品を国内外で発表。ロンドンのテート・ギャラリーやミュンヘン州立近代美術館、東京都現代美術館などに作品が所蔵されている他、六本木ヒルズ内のテレビ朝日外壁や東京オペラシティなど、パブリックアート作品も多数制作。
現在、東北芸術工科大学副学長。
1957 東京に生まれる
1984 東京藝術大学美術学部油画科卒業
1986 東京藝術大学美術研究科絵画専攻修了
1988 第43回ヴェネツィア・ビエンナーレ アペルト部門出品
1990 アジアン・カルチュラル・カウンシル(ACC)の招きでニューヨークに滞在
1990-1991ドイツ文化省芸術家留学基金(DAAD)留学生としてベルリンに滞在
1993 カルティエ現代美術財団アーティスト・イン・レジデンス・プログラムによりパリに滞在
1999 第48回ヴェネツィア・ビエンナーレ日本館出品
会期:2011年12月3日(土)~ 2012年1月9日(月・祝)
会場:三菱地所アルティアム(イムズ8F)10:00 - 20:00
お問い合わせ:三菱地所アルティアム(Tel 092-733-2050)

会場奥の隅に、下宿屋の三畳か二畳ほどの薄暗い中に小さな赤い灯りが点々とある。数字を刻む電子時計と紛うものである。視覚に訴える様々なメディアが溢れている現代である。デジタル数字の灯りなどは珍しくも何ともないが、その何とも言えず心細い印象は、この作家である、宮島達男の心象を表したものだろう。大きな宇宙の中に小さな命の灯りである。刻む数字に零が無いのは、零としての観念が沸き起こりそうにはない。すでに全ては始まっていて零には戻りようがないのである。
この現代美術家は、二十代の頃は、パフォーマンスアートに拘っていた。意味なく声を上げたり、ひとの痕跡と称して、雨の日に地べたにうつ伏せになってみたり、考えを尽くした感のある奇矯とも映る、言わば馬鹿馬鹿しくも思える行為を繰り返していたようである。しかし、彼の胸の内では、人間というクリーチャーは事物とは明らかに違うものであるから、雨で打たれた後の痕跡には絵描きの筆先のような精神性が認められるはずだと思っていたに違いない。分かり難く見える行為は、小さな子の方が得意ではなかろうか。彼らは、まだ、魂と肉体の区別ができていないから、町中で奇声を上げたり、デパートでマネキンのスカートをめくるのは日常である。宮島達男は、十分な青年だっただろうから、分かり難く思える行為を探すのは大変だったはずだ。どこかに、偽りの感情や意識を抱えながら”行為”せざるを得なかった。丸まると太った裸の女に絵の具のようなものを塗る写真がある。その女を紙の上に寝かせ“魚拓”を取ったり、逆さにして、壁の紙にも同じように“芋版”を取る。全てに於いて馬鹿馬鹿しいのだが、日常とは逆さを行くような”無意味と無駄”とも思える行為の中にしか、油絵では自分を表現できないと思っていた節のある、美学校のこの青年の生きる手立ては他にはなかったのである。残ったのは疲労だけであっただろうか。※

まずは、自分の肉体を使って、人間が在るということはどういうことなのかを確かめてみる。表現の手法はその後で必ずやって来る。絵の具による作品なのか、”発光体”による作品であったのかは、後の”零”を刻まないデジタル・カウンターによる作品の発見まではお預けであったのである。この展示会の案内状にもある写真だが、数台のパソコンらしきブラウン管が置かれた机に座る”宮島達男”らしき男が後ろに堆く放られた紙くずの山と写っている。破り捨てた原稿用紙で足の踏み場も無い部屋に座る小説家の写真を彷彿とさせる。そのような”無頼派の作家”のイメージへのアプローチは、どこかにあったはずである。生きることのみに”忙しい”せっぱつまったものが、いつも脳裏にあるのだろうか。パソコンであれ、原稿用紙であれ、縋る思いはいっしょである。※
三十万年電子時計を作った。なぜ作ったのか。本人も、はっきりとはしない。三十万年後であろうと、明日であろうと、今の今は、今である。永遠に今である。延々と続く、無意味と無駄と馬鹿馬鹿しさの繰り返しが、人間の証だと宮島達男は、伝えようとしているようにも思えてくる。徳に溢れた勤勉と努力の跡などは、どこにも無いと言っている。そこに残るのは、心細く灯った、意味なくある命だろう。「それは変化しつづける」「それはあらゆるものと関係を結ぶ」「それは永遠に続く」が、宮島達男のアートの制作コンセプトである。それは、つまり、“無常”という古くからの言葉で十分だろうと思う。
※アルティアムによるテキスト。
※パフォーマンスアート(Performance art)とは、芸術家自身の身体が作品を構成し、作品のテーマになる芸術である。また、特定の場所や時間における、ある個人や集団の「動き」が作品を構成する芸術の一分野である。パフォーマンスアートは美術・視覚芸術の一分野であるが、絵画や彫刻等のような、物体が作品を構成する芸術とは異なったものである。
※無頼派:無頼派(ぶらいは)は、第二次世界大戦後、近代の既成文学全般への批判に基づき、同傾向の作風を示した一群の日本の作家たちを総称する呼び方。坂口安吾、太宰治、織田作之助を中心に、石川淳、伊藤整、高見順、田中英光、檀一雄などを指すことが多い。
※諸行無常:仏教用語で、この世の現実存在はすべて、すがたも本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができないことをいう。
※画像:(c)Tatsuo Miyajima Office
三菱地所アルティアム
「轟音と静寂の後」ティエリー・ジラール写真展〜復興への風景〜

Après le fracas et le silence Exposition de Thierry Girard
Cette exposition, réalisée par le photographe Thierry Girard au cours d’une résidence dans la région de Sendai à l’été 2011, consiste en la présentation d’une trentaine de clichés sur la région du Tôhoku. Sa démarche n’est pas de faire l’inventaire de la catastrophe, mais de représenter comment la résilience des hommes et des paysages permet de reconstruire les choses. Il souhaite inscrire la tragédie qu’a vécue cette région dans un paysage qui a une histoire, un passé, mais aussi un avenir.
大惨事の後の“時”について、人と風景の回復能力によってどのように復興がなされていくのかについて考察し、さらに、歴史も過去もある風景にこの悲劇がどのような形で刻み込まれていくのかに思いを巡らせている。2011年の夏、仙台地方に滞在して制作したティエリー・ジラールの12枚の大きなパネルと20枚の写真で構成される写真展である。制作動機は、災害の現状調査をするのではなく、むしろその後についての考察、人間と風景が回復能力によって復興し、生まれ変わっていく様子に注目することである。この地方が体験した、歴史ある風景の中で起きた悲劇の過去と未来を刻み込んでいる。※
ティエリー・ジラールは、1974年パリ政治学院卒。1976年より写真を撮り始める。風景の写真家として知られ、雄大な風景から、ごく日常の風景あるいは記憶や歴史に刻まれた風景を捉えるその作風で数々の賞を受賞。フランス国内外で発表された彼の作品は、メトロポリタン美術館(ニューヨーク)、パリ国立近代美術館、フランス国立現代美術コレクション(パリ)他、多くの美術館や個人のコレクションとして多数収蔵。※
会期:2011年11月5日(土)~ 11月19日(土)
会場:九州日仏学館5Fギャラリー
お問い合わせ:九州日仏学館(Tel 092-712-0904)
会場:東京日仏学院 ル・カフェ
会期:2011年11月24日(木)~ 12月22日(木)
水の音で目が覚めたのだが、布団の際まで水があった。ティエリー・ジラールの写真は、過去へと誘った。気が付くと、真向かいの木賃宿の二階に居た。昨夜からの激しい雨による川の氾濫であった。母がその木賃宿の賄いの手伝いなどをしながら生計はあったように思う。だから、避難の場所となったのだろう。追体験としての過去の“自然災害”への記憶をこのように表現してみたのである。幼い目が見たものだが、六十年近くの歳月の流れが、余計なものを洗い流してくれているだろう。ひとの生活があったのであるから、それだから“自然災害”は、容赦のないものであることが分かるのである。その頃は、故あって、その宿の所有であったかと思われる廃屋のような長屋住まいを余儀なくされていた。“貧困”は、極普通のこととして蔓延していた。履き潰して捨てた運動靴を隣の子がゴミ箱から拾って履いていた。そんな時代であったと言えば分かりやすいだろう。敗戦間もないころのことである。都心部からの食料を求めて農村部へのひとの流出は多かっただろう。その“廃屋”は、昨夜の激しい雨から、増水などという生易しいものではなく、川幅凡そ二百メートル近くはある市中を流れる川の氾濫によって濁流の底に沈んでいた。宿の二階のすれすれに真っ黒に濁った流れがあった。大人たちの体の隙間から川の方を眺めた。向こう岸に家が点在していたのを覚えているが、ほとんどの家がすでに水没していた。川岸に近いために瞬く間の出来事だったのだろう。向こう岸の一軒の家の屋根の上に四五人の家族が大手を振って助けを求めていた。為す術も無く、大人たちのため息があった。彼らは間もなく家もろともに濁流に飲み込まれた。その流れには、おびただしい数の材木や荷馬車や家畜の死体もあった記憶である。のどかな風景の一つであった、貨物列車が通っていた巨大な鉄橋は跡形も無く消えていた。避難所となった宿は川岸から距離があったために幸いをした。※
前日からの激しい雨は止んでいた。空は青空に変わっていた。自衛隊員が小舟で食料を運んで来た。米軍のヘリコプターが山の上にあった小学校の校庭に救援物資を運んで来たのも覚えている。あの当時の自衛隊員も救援に来たのである。1955年頃だろうか。※

大人たちの話し声から近所の小学生の男の子が行方不明だということを知った。稲刈りの後の田んぼでキャッチボールをした知った子だった。あまり親しくはなかったが、一度だけ家を訪ねたことがあった。夕刻に道路の溝から遺体で見つかった。人だかりの間から彼の硬直した手足が覗けた。その子の父親は金属商を営んでいた。駄菓子が買いたくて道端や川辺で拾った金屑を彼の父親の仕事場に近所の子らと持って行ったことがある。黙ってポケットから小銭をくれたのを覚えている。通りは歩けるまでに水は引いていたが、水没から現れたわが家の裏手には水嵩は依然としてあった。便所は外にあった。仮小屋のような、その便所が水の上に浮いていた。しばらくして斜めに傾き川の方に流れて行った。
畳の無い泥水で真っ黒になった床板の上に父と母の笑顔があった。父の友人が見舞いに来たのだ。たわいのない冗談に笑ったのだろう。飲料水は井戸水であった。すぐに飲んだようだが、病気など誰もしなかった記憶である。どうやって暮らしはあったのか。父と母も亡くなった。
ティエリー・ジラールの写真は、多くを語らない。饒舌を慎むというより、字義通りに風景の中に言葉が見当たらないのである。すっかりと何かが抜け落ちてしまった。われわれは一から言葉を練り直さなければならない。海辺には、今日の魚介の水揚げの量についての話し声があったはずである。街中には毎朝のあいさつの言葉もあっただろう。家族の話し声もあった。電話の中にも声があっただろう。全てが不可解の中で一瞬の内に消えてしまったのである。
慇懃無礼な賢しらさに生きるのも、ひとである。善く生きるのもひとである。すっかりと瓦礫の後となった風景を今一度思い起こしながら、生きてみようと思う。
これは現地への取材がもたらしたテキストではない。ティエリー・ジラールの写真が喚起したひとの思いである。
※東日本大震災(ひがしにほんだいしんさい)は、2011年(平成23年)3月11日(金)に発生した東北地方太平洋沖地震とそれに伴って発生した津波、及びその後の余震により引き起こされた大規模地震災害である。2011年(平成23年)3月11日14時46分18秒(日本時間)、宮城県牡鹿半島の東南東沖130kmの海底を震源として発生した東北地方太平洋沖地震は、日本における観測史上最大の規模、マグニチュード (Mw) 9.0を記録し、震源域は岩手県沖から茨城県沖までの南北約500km、東西約200kmの広範囲に及んだ[6][7][8]。この地震により、場所によっては波高10m以上、最大遡上高40.5mにも上る大津波が発生し、東北地方と関東地方の太平洋沿岸部に壊滅的な被害をもたらした。
また、大津波以外にも、地震の揺れや液状化現象、地盤沈下、ダムの決壊などによって、東北と関東の広大な範囲で被害が発生し、各種ライフラインも寸断された。2011年(平成23年)9月11日時点で、震災による死者・行方不明者は約2万人、建築物の全壊・半壊は合わせて27万戸以上、ピーク時の避難者は40万人以上、停電世帯は800万戸以上、断水世帯は180万戸以上に上った。政府は震災による被害額を16兆から25兆円と試算している。
※九州日仏学館テキスト
※掲載写真は九州日仏学館提供。(トップページ写真も同様)
※白い割烹着の女性が救援の隊員と話をしていたと思う。たくさんの白米のにぎり飯と黄色の沢庵を運んで来た。自衛隊(じえいたい)「Japan Self-Defense Force」とは、主に陸上・海上・航空自衛官で組織された専守防衛を基本戦略に置く日本の防衛組織で、各自衛隊は防衛省の「特別の機関」として設けられている。陸海空の実力組織を指す場合が多いが、防衛省の各機関を含めて自衛隊と呼ぶ場合もある。また個別組織の陸上自衛隊、海上自衛隊、航空自衛隊を指す際に区別を無くして単に「自衛隊」と呼ぶ場合もある。各自衛隊は1954年7月1日に設立された事実上の軍事組織である。
※登校ができるようになってからの記憶だろう。教師にアメリカ兵を出迎えるように言われたのだろう。砂塵の中に彼らが立っていた。乾パンが配られた。在日米軍(ざいにちべいぐん、United States Forces Japan、略称USFJ)は、在日アメリカ軍、または条約などでは日本国における合衆国軍隊ともいい、日米安全保障条約第6条により日本国内に駐留するアメリカ合衆国軍の総称である。1952年(昭和27年)4月28日 - 日本国との平和条約発効、占領解除。しかし同時締結され発効した日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約に基づき駐留が認められる。
※各写真、上より、七ヶ浜町/清水港、サーフィンが大好きだったが、震災が彼女の趣味を奪った。「人殺し」の海を眺めている女性。いわき市、四ツ倉。気仙沼市、南三陸町、修理中の家で立っている母と義理の娘/大槌町。
※ 球磨川(くまがわ)は、熊本県南部の人吉盆地を貫流し川辺川をはじめとする支流を併せながら八代平野に至り八代海(不知火海)に注ぐ一級河川で、球磨川水系の本流である。熊本県内最大の川であり、最上川・富士川と並ぶ日本三大急流の一つでもある。人吉盆地は、太古の昔、東西約40km、南北約10kmに及ぶ大きな湖(人吉湖)であった。人吉盆地を取り囲む山々の中で最も低い球磨村の一勝地大坂間の地点が決壊し、湖に溜まった水が溢れ出し球磨川が誕生した。
九州日仏学館
結ばれるもの Which be knotted / Niloofar Chaman 現代アジアの作家 / ニルーファル・チャマン
ニルーファル・チャマン / Niloofar Chaman
1962 バングラデシュ、ダッカ生まれ
1985 チッタゴン大学芸術学部(絵画)卒業
1987 チッタゴン大学芸術学部(絵画)修士課程修了
1989 ヴィシュバー・バラーティー大学芸術学部(インド西ベンガル州、シャンティニケータン)留学
1992-1994 チッタゴン公立芸術専修学校、講師(絵画・素描)
1996-2002 ウイリアム・ケアリー・アカデミー(チッタゴン)、美術教師
現在 チッタゴン在住 ※
現代アジアの作家 / 「ニルーファル・チャマン展 / 少女の世界の、生き物たちの物語」Tales from the creatures of a young girl’s world
会期 2007年9月6日〜12月11日
会場 福岡アジア美術館
主催 福岡アジア美術館
Crucified Jesus and Everyday Magic Tales
The World is Beautiful Indeed,Wondrously Beautiful!
Flocks of Birds Fly, Shoals of fish swim,
And animals live in their own domain.
Man, the jewel of creation, Armed with horses’ hooves
And lions’ mane Ransack the sea of life.
Master of Subjugation and Exploitation.
Leaving behind the animal world flowers, birds,
humans build houses like snails.
There is no escape, even if one wishes wholeheartedly.
Live like the half dead
Standing on the ruins life around, one feels like crying out…
“Is there anyone fully happy, sane and sound?”
Is this strange world, Tears, Bouquet of flowers, And Sympathy
have become the most important issues ……… ※
十字架にかけられたキリストと日々起こる魔術の話.
世界は美しい!本当に、おどろくほど美しい!
鳥の群れが羽ばたき、魚が群れをなして泳ぎ、
そして動物たちは自らの大地に住まう。
創造の賜物である人間は、馬の蹄とライオンのたてがみで武装し
命の海を荒らしまわる。征服と搾取の主。
動物の世界から遠く離れ花々、鳥たち、
人間はかたつむりみたいな家を建てるんだ。
逃げるところなんてない、たとえ心底願ったとしても。
半ば死んだように生きている
生の廃墟の立ちつくし、泣き叫びたくなる…….
「幸せに満ち正気で、穏やかな人なんているのだろうか?」
この奇妙な世界では、涙、花束、そして同情が
一番大切なことになってしまった ………. ※
からだが熱くなるような色彩である。映像的には、はらわたを思わせる。少したじろぐようにながめていたのを思い出す。厚みを持ったキャンバスには、画面のその側面にも色彩は描かれていたと記憶している。壁面から視線に対して倒れかかるような、迫って来るような感覚に襲われ苦笑いしたのを覚えている。陽光が降り注ぐ大きなサンルームに紛れ込んだとでも言えば良いのか、否、原生林の生暖かさに似た感覚に微睡むと言った方が正解だったろう。
「ニルーファル・チャマン展 / 少女の世界の、生き物たちの物語」という2007年に見た展覧会である。4年前だからおぼろげな記憶ではある。宗教や民族などというキーワードをたどる内にニルーファル・チャマン展の図録を思い出した。今日、あらゆる意味で動きの激しい新興国と呼ばれる地域に作家が在住しているらしいことも、紛争の匂いも漂う地域に隣接することも要因だったにちがいない。
ニルーファル・チャマンは、1962年、バングラデシュ、首都ダッカの生まれである。チッタゴン在住の画家であり、現代美術作家である。バングラデシュ人民共和国(People's Republic of Bangladesh)は、日本国土の面積の約4割、人口1億余の国である。民族はベンガル人が大方を占め、宗教は9割方がイスラム教である。作家が住むというミャンマーとの国境沿いのチッタゴン丘陵地帯には、仏教徒系少数民族が居住する。国語であるベンガル語の識字率は少年を含む人口の約5割。内政上では、1947年のインドパキスタン分離独立時は、宗教(イスラム)に基づき、一旦はパキスタンへの帰属(東パキスタン)を選択したが、ベンガル人としてのアイデンティティーに訴えた独立戦争(第三次印パ戦争)を経て、1971年12月にパキスタンからバングラデシュとして独立。幼いニルーファル・チャマンの目にも、戦争は影を落としていただろう。※
ニルーファル・チャマンが現代美術作家として育ったのは、チッタゴン大学芸術学部に於いてである。バングラデシュには、首都ダッカに対して“チッタゴン派”という芸術傾向があるという。国の新生と共に新しい波が起きたのだろう。国家が個々人の自由を見届けるということに於いてである。激しいものはあったにちがいない。ニルーファル・チャマンは、その波の中でも特別に“強烈な個性”のある作家だそうである。大学の教育方針は、“テクニックを磨くよりも美術理論を学ぶことを重要視する”ことにあった。大海を泳ぐには言わずもがなである。そのためには何ものにも囚われない確固とした思想とそれに基づく理論は不可欠だったろう。ニルーファル・チャマンの美術に触れることは、地域の独自性を感じると共に現代美術に目を向ける恰好の紹介ではなかったろうかと想像する。※
掲載の絵は、上から「結ばれるもの3」/ Which be Knotted-3」2002年(油彩、板120×150×13㎝)、「結ばれるもの1」/ Which be Knotted-1」2002年(油彩、板120×150×13㎝)「ねじられるもの2」/ Which be Twised-3」2002年(油彩、板120×150×12㎝)「パキラ、オパキ アグンタ ニビエ ジャー / Pakhira, O’ Pakhi agunta nivia ja」(シリーズ1)2003年(油彩、板122×153×16㎝)「パキラ、オパキ アグンタ ニビエ ジャー / Pakhira, O’ Pakhi agunta nivia ja」(シリーズ3)2003年(油彩、板122×153×16㎝)。※
見立て、比喩、暗喩、ドラマ仕立てといった表現ではなく、不思議な形のものは不思議なままに、夢の中の出来事も夢の中のように、丸いものは丸く、曲がったものは曲がったままに、ありのままに描かれたと思えて来る。効率などとは無縁のあるがままのすがたが作家の姿勢だろう。
「結ばれるもの3」/ Which be Knotted-3」からは、安易に訳文から「むすぼれ」という語を連想したが、この肉の塊のような力強さを前には、鬱など吹き飛んでしまうだろう。直訳すれば“どちらが絆か。”とでもなるのだろうか。ねじれるほど力強くあなたにしがみつき、引き寄せたい。あなたに最も身近と感じる時が、わたしは一番幸せなのである。同胞を忘れてはならない。あなたをわたしが愛していることを、あなたは忘れてはならない。誓って悪魔に魂を売ってはならない。そう言っている。掲載の画像は小さいが迫力は分かるだろう。
会場には他に3人ほどの来場者があったと思う。展覧会名に愛らしさや可愛らしさを求めたと思われる若い女性たちであった。ニルーファル・チャマンは、茶目っ気のある女性という言い方は当てはまるのかどうか。そうではないのか。美術館に設えられた彼女の部屋にひとりぽつねんと居た。図録にサインと共に日本の文具の“可愛いシール”を幾つも貼ってくれた。こんなことは初めてですよと美術館の女性職員は言ったようであったが、来客に上機嫌だったのか、否、彼女は懸命に謝意を表していたのである。※
※略歴は2007年に作成されたものである。
※現代アジアの作家 / 「ニルーファル・チャマン展」図録巻頭の詩より一部引用。(英文和訳 五十嵐理奈 / アジア美術館学芸員)
※外務省記事より引用し参考にした。www.mofa.go.jp
『米国に白人同士の恋人がいた。彼女につれられて、彼が彼女の父に初めて会いにゆく。意外なことに、彼女の父は黒人であり、母は白人であった。父に紹介された彼の心は動揺し、彼女は彼の一瞬の動揺を見逃さない。そして破局に進んでゆく。そんな小説が米国にあったが、似た話は現実によくあるそうだ。この恋人同士の間には、当初、「仮想の」同族意識、つまり共通のアイデンティティが存在したのに、彼女の父親の血が判明してから、それが現実の二つの異なる民族意識に転化したともいえる。民族の仮想性がそこに浮かんでくる。民族意識は「他」との相違を認識することによって、芽生えてくる。「他」との相違にとどまらず、対決する関係になれば、民族意識がさらに強化される。ユダヤ国家イスラエルとの闘争を経て、パレスチナ人が民族的アイデンティティを強化していったのが、典型的な例といえる。』(「民族世界地図」浅井信雄 著、1993年、新潮社刊)よくよく見れば、我々の日常にもあることかも知れない。
※図録中の解説「ニルーファル・チャマン展 / 少女の世界の、生き物たちの物語」(五十嵐里奈 / アジア美術館学芸員)を参照。一部引用した。
※「バングラデシュ独立直後のチッタゴンの若い世代の作家たちは、ある特定の形式の絵画の伝統から、より幅広くさまざまな表現形式を選択するという転換に挑んだ初めての世代だった。彼らの作品は、抽象画、半抽象画からさまざまな種類の具象画へ、そして物語性のある幻想的なものから社会的なメッセージ性のあるものへと多様な様式を取るようになっていった。民俗的、部族的なものからひらめきを得るだけではなく、国際的な舞台における前衛的な美術表現からも刺激を受けて変化していった。それらの試みは、世界の美術の文脈においてはさして革新的なものではなかったとしても、バングラデシュの美術状況を支配し、結果的にある種の「芸術の非人間性」を招いてしまった類型的な抽象画の単調さを打ち破る働きをしたのである。70年代初めというバングラデシュが独立・解放された時期に、視覚表現の領域においてさまざまな傾向の造形、表現技法、様式による創造的な取り組みが熱心に行われ、チッタゴンの美術がその流れにおいて革新的な役割を果たしたのはまちがいない。」(「現代美術の中心地、チッタゴン」図録より。アブル・モンスール、チッタゴン大学芸術学部教授による。英文和訳:五十嵐里奈 / アジア美術館学芸員 。)
※「結ばれるもの3」/ Which be Knotted-3」:人と人が温もりのある関係を結び、強く「結ばれるもの」となることを願って描いたという。(図録より解説)
※「パキラ、オパキ アグンタ ニビエ ジャー / Pakhira, O’ Pakhi agunta nivia ja」:「パキラ、オパキ アグンタ ニビエ ジャー」とは、「鳥よ、火を消しておくれ」の意味。「日を手に入れた人間は、ときに怒りとともに火を破壊の力として使うようになってしまった。」(図録より解説)
※ニルーファル・チャマンが居た部屋は、公開制作する「ニルーファルの部屋」というインスタレーションであったようだ。
※掲載の画像及び “○○” の語彙については凡そであるが「ニルーファル・チャマン展 / 少女の世界の、生き物たちの物語」の図録から引用したものである。
福岡アジア美術館
豊泉朝子 展 / 「顔をつぶす前に、しなやかに腕をへし折る」
豊泉朝子 (Toyoizumi Asako) 東京都港区六本木生まれ
1984 女子美術大学卒業制作優秀作品賞 / 84年度全国大学版画展買い上げ保存賞
1985 東京セントラル美術館版画大賞展 / カーボフリオ国際版画ビエンナーレ展(ブラジル)
1986 多摩美術大学大学院修士課程修了 / CWJA現代版画展
2001 今世紀の蔵書票展(イタリア・ブルニコグラッフィック美術館 )
Art to "T"展 /セントニコラス蔵書票展(ベルギー)/プレートマーク十回記念展
現代日本の版画vol.7出版特別記念展/ ちょっとお宝年賀状展 / なび展
2002 多摩美術大学リトグラフOB展 / ART BOXコレクション展 / 心を贈るアート展
2003 心花会展(新宿スペースゼロ)
2004 台日蔵書票交流展(台湾)/ ハッピーアート展 / 扇展(8・9・10月)
2007 Drama アートスペース獏の三十年展・Ⅶグリワス国際蔵書票コンペ'07(ポーランド)
所蔵 女子美術大学図書館 / 町田市立国際版画美術館 / 日本書票協会 / MET市図書館(フランス)多摩美術大学美術参考資料館/ロッテルダム市公開コレクション/ Pバイユ美術館(フランス)台湾書票協会 / シャマリエール国際版画美術館(フランス)/ カイロ国際アートセンター(エジプト) / ヴェルニウス・グラフィックギャラリー・美術館(リトアニア) /ティコティン日本美術館(イスラエル)/ ルニコグラフィク美術館(イタリア)/タイペイエクスリブリスクラブ(ROC) / バルセロナユネスコセンター(スペイン) / カリニングラードアートギャラリー(ロシア)/ Muzeum Narodowe W Warszawie (ポーランド) / グリワイス図書館Book-Plateコレクション(ポーランド)/ 日本美術家連盟会員 / 現代書道院正会員(他に個展及び受賞は多数である。)
会期:2011年8月22日~9月4日
会場:アートスペース 貘
お問い合わせ:福岡市中央区天神3の4の14、高栄ビル2階。電話092-781-7597
豊泉朝子の絵は初めてだが、どこかで見たような気がしないでもない。右上に掲載の絵の表情は正しくそうである。母の日であるとか、父の日にスーパーなどが募集したものを見かけた記憶の幼い子供の絵の“あれ”である。計算というものが無いから恐ろしい。ひんやりとして、パパやママは脅えてしまう。この個展に於いては、潔さへの思いが根にあるようである。潔さとは、何をさすのか。未熟者のことか。「顔をつぶす前に、しなやかに腕をへし折る」。掲載の上段の絵に添えられた句である。この句は気持ちがよく出ている。だから、読む側も気持ちがよい。
嫉妬に狂った老いた女が、若く美しい女を憎く思うのは、その小憎らしくも綺麗な顔をつぶしてやりたいほどに残虐の妄想に浸るのは許せるひとの条理であると暇つぶしに想像してみてはいかがか。あの可愛いわが子が、となりの部屋であの可愛いペットの子猫の腕をへし折りにこにこしていた。これもまた許せるだろう。
アートスペース貘は、福岡市の中央区のどちらかと言えば近年寂れた飲食街に位置する。その位置具合の趣きにアートスペース貘は元々あるのだろうと錯覚し想像する。急な階段を登ると右が喫茶店「屋根裏貘」。左がギャラリーである。程よく閉所であり心地良さを感じる。ここで温められこの世を去るのも選択のひとつだろうとふと思う。バーにもなる夕刻である。氷を落としたアルコールをもらった。隣にも同程度の酔いの客である。バーの光景とは一体がこのようである。それは、ひとというものの怪しさに他ならない。ひととは、いたようであったが、もしや、そのようなひとは、いたから、いたのだと、間の悪いままに時は過ぎて行った。
作品の添え書きの中で豊泉朝子は言う。これまで“アーチストらしく”、それらしく言葉を添えたが辞めた。思ったそのままに表現を増殖させた。A4のコピー用紙にコピーしたと思われる作品群が印象的である。それはイメージの羅列と面白く写る。何であれ、豊泉朝子がそこにいると言っている。“らしく”などと、可笑しいわ。潔さは止めども無いのである。
表現は版画や書、ペンに依る。描いても描いても泉のように湧き出るのだろう。止めどないから、ここら辺りでお陀仏という手もある。さあ、見て。と言わんばかりの壁面いっぱいの書がある。薄墨やはねや止めの他に踊り狂うもあっただろうか。使用前、使用後のように壁面は左右に二つに分かれていたようだが、息も絶え絶えがどちらだったか。お陀仏がどっちかの説明も加えられた半狂乱の様であったように思う。思いのたけを言ってしまいたい。専修念仏という方法もあったかしら。そのようにつくづくと思う。それぞれが確実に死ぬことへの思い巡らしは、そろそろ用意しておかねばならないのだろう。人間はどこから来てどこへ行くのかは分からないのである。不存知の域とはよくぞ言ったものである。人の世に悩みは様々だろう。「ろくなコトしか吐けないのなら舌を裂いてお仕舞いなさい」。下段の絵に添えられた句である。※
※「不存知」つまり「存知せざるなり」ということに帰着するとおもいます。(中略)(親鸞の)もうひとつ得意の言葉があるんですけど、それは「面々の御計」。おまえたちの勝手だよ、ということだとおもいます。この「存知せざるなり」というのと「面々の御計なり」というのは、親鸞が最後に、念仏称名をとなえればだれだって、むしろ愚者であればあるほど、あるいは悪人であればあるほど浄土へ往けるんだという考え方に対して、もう一度否定を加えた言葉とも受け取ることができます。(「智の岸辺へ」吉本隆明著、親鸞についての章、1976年、弓立社刊より。)
※宗教とは何かと問われれば、ひとは何と答えるだろう。学者に聞けば益々考え込まなければならないから、面倒なことになるからこう答えることにする。きみも郷里に帰れば必ずと言ってよいほど仏壇を目にすることになる。あれだ。あれが宗教である。親族の命日ともなれば寺から僧侶がバイクか車でやって来る。念仏を唱えて世間話をして茶を飲み布施をもらって帰る。誰かが死ねば葬儀一式がとり行われる。四十九日が来て初盆があり、一回忌がくる。いつのころからか、当り前のようにこの仕組みは根付いて行ったのだと、そう思う。誰も口には出さないが、自らも死を恐れることなく浄土へ行けると思う節もあると皆がいっているらしいから、そうなのだろうと新ためて思うのである。このように、曖昧だが、死を前にして悲しみと恐れを皆で分かち合う心地良い世間のシステムに都合よく組み込まれた習慣のようなわれわれの宗教である。後は死んでみなければ分からない。
asako toyoizumi
art space baku
Slow Cool Breezes / Wei Leng Tay[鄭瑋玲]

Having lived away from home for twelve years, my impression and memories of Singapore were what I had experienced as a child. In the time that I was away, my thoughts of home were shaped by the foreign media, looking at Singapore from the outside.
In 2009, I came back to understand it better. Finding subjects through friends and relatives, I met with people, listened to their stories and visited their homes, exploring areas and lives that were both foreign and yet familiar to the Singapore where I had grown up.
Our views are shaped by where we live and our experiences. We juggle our dreams, our obligations, our families, our jobs, our frustrations, our secrets.
Slow Cool Breezes brought me into the homes and lives of the people you see here. It has also brought me back to question my perceptions of my home and relationships. Our homes are what are closest to us. They are also where we have to face ourselves. ※
12年の間、離れて暮らしていた故郷であるシンガポールについての印象と記憶は、わたしが幼かった当時の経験によるものに限られている。不在の間の故郷のイメージは、その多くが外国メディアにより形づくられた外からのものであった。
2009年、わたしはより理解を深めるために帰郷した。友人や親戚を通して帰郷の目的を探しながら、かれらに会い、話しを聞き家をたずねて、異国のようでもあり馴染みの土地のようでもある、わたしが育ったシンガポールを探索した。
物の見方は、どこで生活し経験をしたかで形づくられる。
夢、責任、家族、仕事、つまずき、わたしの思い、全ては、その意のままに操られたことだろう。
スロウ クール ブリージズ、ゆっくりとして冷気を帯びた微風は、この地の人々の家や生活へとわたしを運んで来てくれたのである。その微風は、わたしの家、わたしの家族の匂いへと連れ戻しもした。すぐ側にあると感じるわたしの家。それはまた、わたし自身でもあった。※
ウェイ・レン・テイ/Wei Leng Tay[鄭瑋玲]
1978年、シンガポール生まれ。香港在住。街の空気や息づかい、或いはそこで暮らす人々の生活の断片を、シャープに切り取るフリーランスの女性写真家。福岡アジア美術館には、2009年1月13日から3月25日までレジデンスワークにより滞在。※
ウェイ・レン・テイには、福岡市の美術館で一度だけ会っている。レジデンスワークの歓迎の集いで、飾り気など無用といったさっぱりとしたスピーチをしていた。その後の自由に三々五々とは行かない儀式半ばの集いに溶込めただろうか。
人のぬけ殻のような寝室の写真が印象的である。今しがたまで誰かがいたのだということより、わたし一人という意味、孤独と静けさを好む風景がそこにある。ウェイ・レン・テイは、写っている目の前にある現実は、かつてあったように、そのように、ことは運ばれて行くと言っているのである。何も変わりはしない。彼女や彼は、これまでにも会ったひとなのに仮面を被ってわたしを迎える。時間は装いである。女はシャワーの後に髪をブローする。笑顔のない彼女は別れを告げ、ドア越しに消えた。奇を衒うのではなく、そのように髪のブローは繰り返されるはずである。グリーンが美しい場所には、これまでもずっとあったかのように整然と白壁のアパートメントが並ぶ。わたしは住んでいたし、これからも住んでいただろう。出会ったひとは、出会ったように、わたしを思い出し忘れる。子供の頃に遊んだ記憶のあるガーデンのドアは、錠が外されていた。わたしは通り抜ける。わたしが開けたにちがいない。ひとの気持ちとは、あったように望むのである。密かな楽しみはあの頃のままであったが、錠が外されたガーデンのドアなどは最初から無かったにちがいない。
作品に、Desultory-Landscapes、とりとめのない光景というドキュメンタリーがある。廃屋や捨てられたごみの山が被写体のシリーズである。なぜ、目の前にゴミの山があるのか。とりとめもなくあるのか。その理由をつき止めたところで、そのゴミの山はあったし傷は癒えないだろう。香港の英国から中国への返還や都市開発の筋書きが見えるにせよ、ゴミの山を、わたしの目の前のこととして見ているのである。これまであったし、あったことは確かだが、そこに暮らしていた人々と共にゴミの山は忘れ去られることだろう。中に、一枚だけ異質なショットがある。部屋の鏡に向かって化粧をする女と隣の部屋で女の方を伺う男。明らかに女の意識の中に男はいない。ウェイ・レン・テイは、 Hong Kong Livingというシリーズの前置きに、1997年の英国の租借地からの中国への返還により、その後の香港に二重のシステムが存在していることを挙げている。写っている目の前にある現実は、かつてあったように、そのように、ことは運ばれて行くのだろうか。返還後の香港は、ハイコストの生活費と貧弱なガバナンスを強いられてはいるが、多少のトラブルを除けば興味深い活気づく都市といえると、ウェイ・レン・テイは自ら語っている。香港の人々が長い時間を外で過ごした後の、帰宅後の素顔を撮ることで、これから彼らが、現実をどう対処しようとしているのかが分かるはずだというはっきりとした図式が見えてくるのである。※
ゆっくりとして冷気を帯びた微風が吹いている。
わたしが、長い間留守にしていた場所である。わたしは、わたしがあったことを求めたのだが、やはり、なかったのだが、それはやむを得ないことであり、時というもののなせる業であったのかも知れない。彼は、彼女は、わたしを見たひとかも知れない。美しい夜景はかつての見た夜景だったかも知れないのである。わたしは、わたしであることを求めてやまない。
※Wei Leng Tay Site / Slow Cool Breezesより原文。
※拙稿。
※福岡アジア美術館による。
※シンガポール:シンガポール共和国(英語:Republic of Singapore)、通称シンガポールは、東南アジアのマレーシアに隣接するシンガポール島と周辺の島嶼を領土とする国家(都市国家)で、イギリス連邦加盟国である。国名の意味は、サンスクリット語で「ライオンの町」。1819年にイギリスの貿易の植民地として設立される。その後の独立以来、世界で最も豊かな国のひとつとなり世界最大規模の港を持つようになる。シンガポールは、小さな島にある小さな国であるが、500万人ほどの人々が暮らすかなり混雑した都市で、その上、世界で最も人口密度の高い国としてモナコに続き2番目となる。しかしながら、その面積の50%以上が緑で覆われ、50以上の主要な公園と4つの自然保護区を持ち、魅力的なガーデンシティを形作っている。1年を通じて雨が多いが、日本と違い一日中降り続くことはほとんどなく、大抵数十分から数時間程度で雨はあがる。11月下旬から12月いっぱいにかけ、他の月に比べてさらに雨量が多くなりスコールのような雨が降る。この期間中は最低気温も低めで、朝晩には肌寒ささえ感じるほどである。
※香港:香港(ホンコン、英語:Hong Kong)は中華人民共和国の特別行政区である。1839年の第一次アヘン戦争で清国が敗れた結果、1842年に結ばれた南京条約で清朝が香港島をイギリスに永久割譲。第二次世界大戦下での日本軍の占領統治を経験した後、1945年に再びイギリスの植民地に復帰する。1984年にマーガレット・サッチャー首相と鄧小平中国共産党中央委員との間でなされた合意に基づき1997年に割譲地と租借地を中華人民共和国政府に返還。
※Wei Leng Tay Site / Desultory-Landscapes及びHong Kong Livingを参照されたい。
Wei Leng Tay Site
福岡アジア美術館
小松孝英個展「共生」

小松孝英にとって学生時代を過ごした福岡市は第二の故郷である。本展では一人の作家の個展を福岡の異なるギャラリスト達が協力するという新しい試みを実現している。今展のテーマは「生物多様性」についてである。ここに描かれる世界では、昔の絵師のような影を感じさせながらも、日々刻々と変化していく生態系の様子がありありと描かれている。昨年秋のCOP10(生物多様性条約締約国会議)での特別展示に引き続き、今年も国連総会での展示が予定されるなど、そのメッセージ性の強さは多くの人々に注目され拡がっている。※
小松孝英
1979 宮崎県出身
2000 九州デザイナー学院アーティスト学科卒業
2006 個展 「和生態系」ギャラリーセレスト(福岡)
出展 ART SHANGHAI( 上海)
2007 企画展 Caelum Gallery( ニューヨーク・チェルシー)
2008 個展 「共存」TEZUKAYAMA GALLERY(大阪)
出展 東京コンテンポラリーアートフェア(東京)
2009 個展 「瞬-moment-」ギャラリーPLOT(銀座)
出展 YOUNG ART TAIPE(I 台北)
個展 「coexistence」Gallery forty-seven(ロンドン)
出展 ART OSAKA(堂島ホテル/大阪)
出展 Korea International Art Fair( ソウル)
2010 出展 アートフェア東京(国際フォーラム/東京)
個展 「雨詩」古民家ぎゃらりぃ花うさぎ(福岡)
COP10(生物多様性条約締約国会議/名古屋)にて特別展示
2011 個展 「儚[Ephemeralness]」TEZUKAYAMA GALLERY
出展 ASIA TOP GALLERY ART FAIR(香港)
会期:2011年6月4日~7月31日
会場:ギャラリー アートリエ / 福岡市博多区下川端町3-1 博多リバレイン 地下2階 お問い合わせ:092-281-0081
主催:(財)福岡市文化芸術振興財団 協力:TEZUKAYAMA GALLERY
ディレクター:松岡博(ギャラリー松庵)、阿部和宜(みぞえ画廊)、尾川きよみ(ぎゃらりぃ花うさぎ)、前田直子(ギャラリーアルドマ)、
増田敬一郎(マスダ画廊)、本村大河(ギャラリCELESTE)
協賛:みぞえ住宅、専門学校 九州デザイナー学院 後援:西日本新聞社、毎日新聞社、Love FM、共同通信社
めずらしくアゲハ蝶を見かける。からだが大きく、ゆっくりと風を起こしていたと思う。都心のビルの影のような所で蝶を意識して見つけたのは、美術家・小松孝英個展「共生」を見ていたからにちがいない。無意識の内の現実に見る連想は面白い。※
美術家・小松孝英の絵は、日本画、特に江戸琳派の世界に憧憬を抱いて描かれたと聞く。※ あの箔の光った襖や屏風の世界である。そこに蝶が舞う。自然の花や木を題材にした屏風などの装飾的な作品を思い浮かべれば、蝶はよく似合う。印象は、奥行きではなく形やその配置を重視した二次元の面白味を感じる意匠の世界である。時間を当時の江戸琳派の時代に設定しながら金や銀の箔を古びた趣で全体に施し、彼の郷里で幼い頃から馴染んだ現空間の蝶のイラストレーションが時空を超えて舞うのである。この絵の魅力というものは、観念は江戸にあるということである。美術家・小松孝英は、江戸の町に生きて立っていなければ表現は成り立たない。また、彼はそうありたい。※
作家のブログには、懐かしく思える風景がある。ブログというものを理屈では解っていても、使うには拘る、持って回った旧世代は図らずも有難く思った。市房山、小林市、都城。蝶はもとより、クワガタ、カブト虫、蛇に魚釣りの話題が出てくる。滑る川底、竹竿がしなる感触である。
主題である「共生」とは、「生態系」の問題を扱う生き物の在来種と外来種がモチーフであるが、本当は、“ぼくの傍らで生きる”生き物や自然の話しであり、野生に親しむ目とは、ありのままの自然をそのまま受け取ることの心地よさだと彼は言っているのだろうと思う。社会という観念のつくりごとの世界よりも、自然という感触や感覚が優先する気配だけが頼りのひともまた共存する原初の世界の魅力の話しである。何とも言いようがないと芸術や女の美しさを形容するが、何とも言いようがないと自然や蝶の美しさを彼は形容しているにちがいない。
展示された作品の中で一枚だけ人物と蝶が描かれたものがある。裸身の若い女の寝姿の上に蝶が描かれている。ここだけが観念ではなく艶かしい。女は手掴みにはし難いが、自然を見るように捕獲するのである。連想とは面白い。映画「飛べない沈黙」を思う。ながさきアゲハが、生息が考えられない北海道で一人の少年により捕獲される。そこからオムニバスの物語が日本列島を縦断して行く。
※冒頭のテキストはギャラリー アートリエの今展の紹介文より要約した。
※アゲハ蝶:チョウの中では最も大型の分類群である。翅の鱗粉は種類によって黒・白・赤・黄・青・緑など様々に彩られている。また後翅の縁には大小の突起があり、特に後翅から斜め後方に伸びる長い突起のことを尾状突起という。これらの突起の長さや有無も種類を判別する有効な手がかりである。成虫はほぼ全ての種類が花に飛来するが、地面の水たまりや海岸などで水分を吸う習性がある種類も多い。大きな翅をはばたかせて飛び、吸水・吸蜜や産卵もはばたきながらおこなう。
※小松孝英江が憧憬する江戸琳派である酒井 抱一(さかい ほういつ、 宝暦11年7月1日(1761年8月1日) - 文政11年11月29日(1829年1月4日))は、江戸時代後期の絵師、俳人である。尾形光琳に私淑し琳派の雅な画風を、俳味を取り入れた詩情ある洒脱な画風に翻案し江戸琳派の祖となった。神田小川町の姫路藩別邸で、老中や大老にも任じられる名門酒井雅楽頭家、姫路藩主酒井忠仰の次男(第四子)として生まれる。寛政2年(1790年)に兄が亡くなり、寛政9年(1797年)10月18日、37歳で西本願寺の法主文如に随って出家。市中に暮らす隠士として好きな芸術や文芸に専念できるようになった。出家の翌年、『老子』巻十または巻二十二、特に巻二十二の「是を以て聖人、一を抱えて天下の式と為る」の一節から取った「抱一」の号を、以後終生名乗ることになる。
※『老子』の「是を以て聖人、一を抱えて天下の式と為る」の一節:彼は自らものを示そうとしない。だから他人からほめられるのである。自らほこらない。だからその功を認められる。自ら自慢しない。だからその名誉が保てるのである。そうだ彼は一切と争わないのだ。だからすべての人々が彼と争うことが出来ないのである。古人が曲がっている木は切られることがないと言ったのはほんとうのことだ。まことに自然に委せているからその天寿を全う出来るのだ。そして帰るところに帰れるのだ。(「現代語訳 老子」伊福部隆彦著、1960年、昭森社刊)
※映画「飛べない沈黙」:http://d.hatena.ne.jp/tougyou/20110703/p2
ギャラリー アートリエ
小松孝英ブログ
松岡志保≒gaju 個展 / ima coco.6°の果実
松岡志保≒gaju / 造形作家 1977年、熊本県旧牛深市生まれ。高校を卒業する頃にフラワーデザインに憧れ勉強中にクレイワークに出会う。花も器も一つのオブジェとして造り上げたいという思いから、異素材を組み合わせたオブジェ・立体イラストレーションの造形空間をつくるようになる。
2010年、阿蘇くまもと空港壁面オブジェ制作、企画展『ESOPO』造形絵本の世界展(阿蘇白水郷美術館)に参加。2009年、企画展 絵本『ESOPO』造形展(熊本)、人形展『いと・ちいさやか~ようこそ!お菓子の国へ』(東京)、人形展『絵本の中に迷い込んで』(東京)等に多数出展する。※
会期:2011年4月16日〜5月29日
会場:ギャラリー アートリエ / 福岡市博多区下川端町3-1
博多リバレイン 地下2階
お問い合わせ:092-281-0081
主催:(財)福岡市文化芸術振興財団
ブティックを思わせるエントランスである。お針子の匂いがする迎える女性もいないのだから少し不安内な感じを受ける。仕事の匂いとは、そういうものだろう。男性としては細やかな所作は無いものであるから、女性のやわらかな仕草は尊く心地よく、別な生き物として感じる瞬間でもある。全体に白っぽい色彩を感じさせながら中世ヨーロッパの風情を思わす造形物は迎えてくれる。
「ima coco.6°の果実」。クレイワークといわれる技法を駆使する造形芸術家であるgajuと名のる松岡志保の展覧会である。以下は、会場入口にあるこの作家の思いを綴ったものである。※
幼い頃から、幾度となく………、
きっと、それは無防備な瞬間の自分にこっそりとおこる出来事。
それは、時計の秒針が6°カチッと、戻ること。次の瞬間……… 秒針が何事もなかったかのように進んでいく、行き帰り2秒の出来事。
カチッと後ろに動く6°の歪みは……2秒のはかりごと、
もしくは、帳尻合わせの時間。
しかし……そのカチッは今の私を創ってくれた貴重な歪みでもある。
美しいものに感動したり、痛いと感じたり、怒ったり、高揚したりすることができること..... 。
強いものや弱いもの、あるいはそんな自分と出会ったりする瞬間へ、 私を導いてくれる揺らぎだと感じている。
私の時間をほんの2秒だけ、止めているのか、戻しているのか。
本当に、たったの2秒なのか、実はもっと沢山の2秒が詰め合わさった何時間、何年 なのか。それは今のところ判らない。
幸せな時間なのか、不幸な時間なのかも、定かではない。だとすれば、それは、きっと私の人生の季節に実る、果実なのだと思う。
ある誰かが書いた文章を読む際に、感情移入というよりは、これはわたしのことを言っているのではないか。などと気色ばむことは誰にでもあることだと思う。誰かが誰かのことを書いたことなのに、まるでわたしのことのように感じてしまう経験は多々あるだろう。研ぎすまされた描写であればあるほど、心の奥深く沁み入ってしまう。ひとの心の危うさ。幼い心ならば、そうであればあるほど沁み入るにちがいない。gajuの言う「きっと、それは無防備な瞬間の自分にこっそりとおこる出来事。 それは、時計の秒針が6°カチッと、戻ること。」ではなかっただろうか。
2秒という隙間6°の奥深く滑るように彼女は別の世界へと落下したのである。そこは約束された世界であり、豊穣な想像力という海を泳ぎ切ることを言い渡されるのである。
展示された作品の印象は、紛れ込むようにあしらわれた無用になった錆び付いた金具類である。それは釘であったり、かつての旋盤だったり、柄の無いスコップであったりする。gajuの名刺には錆び付いた2つのスコップがリースのデコレーションのように組合わされている。スコップは労働の証だろう。錆は働きで流した汗である。そして、流れた時間だろう。人間の使った時間は無用であってはならないのである。額縁に収められた横長の錆びた鉄板はgajuの世界のバイブルである。演出によってその額の裏側辺からは古い時計のように螺子を巻く音が聞こえ秒を刻む音が聞こえる。前衛絵画であったりコセプチュアルアートの趣を見るかもしれないが、ロマンの方が勝っている。鉄板時計の下の白いテーブル掛が映えるダイニングテーブルには、食材かのように食器と共に錆び付いた釘や古びた電球などがスタイリストの手技のように置かれている。まるで触ってはいけないかのように美しい気配りであるから、きっと夢に決まっているが、眼前のことのように、日々の労働への癒しの時と受け取って置きたい。大振りのシャンデリアは物語を求め、大きな旋盤の印象のドアの場所には、生乾きの傷口のかさぶたを剥がすかのように十字クロスの下に痛々しくブリキのお菓子の箱に錆びた釘がいっぱいである。こぼれた赤いカーラーが愛らしい白い土砂を被ったようなドレッサーは、かつての恋しいひとを呼んでいたかもしれない。覆う白い土砂は崩れ去った印しであり、多くの錆び付いたものを握る手は、悔い改めよと迫る。作品の全体を絡めるクレイワークは失くしたもへの愛惜という言葉に置換えても良いだろう。滅びることは避け得ない。増殖する私自身は脱ぎ捨てた時間を認めざるを得ない。※
ima no kyou coco ni iru watashi ha Saishin no watashi jishin ………..
ここにいる、いまの私は最新の私自身。
カチッからおこった果実を集めて…… 最新の私自身を作品にしてみたい。
そして、その正体を解き明かしてみたい。
多くの作品については、下記のサイトを参照されたい。
※牛深市(うしぶかし)は、熊本県天草諸島南部に位置した市。2006年(平成18年)3月27日 - 本渡市・有明町・御所浦町・倉岳町・栖本町・新和町・五和町・天草町・河浦町と合併し、天草市となる。牛深市における最も著名な行事としては毎年4月に行われる「牛深ハイヤ祭り」が挙げられる。
※ブティック(boutique)とは、服飾関係の商品を専門に扱う小売店の一種。フランス語で「小さな店」の意味。洒落た衣服を扱い、さまざまな装飾品まで含めた品揃えを行っていることが多い。
※クレイワーク:clay work / 粘土細工。粘土を用いた作品。
※コセプチュアルアート:Conceptual artは、1960年代から1970年代にかけて世界的に行われた前衛芸術運動。アイデア・アート(Idea art)とも呼ばれる。例えば、こうも言われた。「コンセプチュアル・アートにおいては、アイデアまたはコンセプトがもっとも重要である。作者がコンセプチュアルな芸術形式を用いたとき、それはプランニングや決定がすべて前もってなされているということであり、制作行為に意味はない。アイデアが芸術の作り手となる。」(ソル・ルウィット『コンセプチュアル・アートについてのパラグラフ』)今を思えば当り前のことのようである。
※ロマン:中世初期には、ラテン語が土着語化した俗語をロマン語といった。ロマンは,したがって、ラテン語でなく、フランス語で書いた物語の意。「バラ物語」、「ルナール物語」のように韻文で書かれていた。(「立体フランス文学」篠沢秀夫 著、フランス文学者、学習院大学名誉教授。1970年、朝日出版社)俗にいえば、情熱が空想を呼び空想が情熱を帯びながら冒険は展開して行く。(拙稿)
※スタイリスト:stylistは、モデル、俳優、タレントなどが身につける衣裳やアクセサリー小物などを集め、雑誌や映画、テレビ番組などその場面に合ったコーディネートする職業である。フランス語のスティリスト(styliste)はファッションデザイナーを指す。
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ギャラリー アートリエ
ホンマタカシ IN OUR NATURE
ホンマタカシ / 1962年東京生まれ。写真家。1999年、写真集『東京郊外 TOKYO SUBURBIA』(光琳社出版)で第24回木村伊兵衛写真賞受賞。2008年、ニューヨークのApertureから写真集『TOKYO』を刊行。1993年から2007年までの間に東京をテーマに撮影した作品が収録され、それまでの集大成的な内容になっている。2009年、単行本『たのしい写真 よい子のための写真教室』(平凡社)を刊行。このほか主な写真集に『Babyland』(リトル・モア/1995年)、『Hyper Ballad: Icelandic Suburban Landscapes』(スイッチパブリッシング/1997年)、『東京の子供』(リトル・モア/2001年)、『Tokyo and my Daughter』(Nieves/2006年)、『NEW WAVES』(PARCO出版/2007年)、『trails』(マッチアンドカンパニー/2009年)、『widows』(Fantombooks/2010年)、『M』(ギャラリー360°/2010年)などがある。2010年より東京造形大学大学院客員教授。
雑誌、広告など幅広いジャンルで活躍する傍ら、東京、波、子ども、山などを被写体に制作活動や執筆活動を続けているホンマタカシ。独自のドライな視点で切り取った被写体との距離感、写真というメディアに真摯に向き合い生み出される作品は、国内外で高く評価されている。1980年代後半からは、広告、ファッションの領域を中心に活躍し、90年代初めにはロンドンの先鋭的なカルチャー誌『i-D』で様々な方法で写真を制作する。1999年には東京の郊外風景と人々を撮った写真『東京郊外』で、第24回木村伊兵衛写真賞を受賞。近年では、書籍『たのしい写真、よい子のための写真教室』(2009年)の出版や、写真の可能性を探るワークショップの開催、2011年には国内初の美術館での個展を金沢21世紀美術館を皮切りに各地で展示を行うなど活躍の場を広げている。
会期:2011年 6月18日(土)~7月18日(月)
会場:三菱地所アルティアム(Tel 092-733-2050)
見るでもなく、ただ視界にあるといった風景を眺めている気分になる写真である。作品コンセプトには、Photography is, first of all, a way of seeing. It is not seeing itself.というフレーズが好んで引用される。※ “first of all”は、第一に、であるとか、真先に、の意味に使われるが、写真の第一義は物の見方の一つの方法であり、見るという行為それ自体ではない、とでもなるだろう。観覧する側にも間近の風景を眺めている錯覚をさせる写真は、この引用されたフレーズを忠実に再現したものと思える。ただ漫然と目を開き、焦点をどこに当てようかと眼球は彷徨うのである。カメラの焦点の取り方によっては普段の我々の無造作な視界を再現することは可能であり、It is not seeing itself.、”見るという行為それ自体ではない”ということを再現して見せる。サボテンが繁る草むらの写真の中にぼんやりと映るプラント名の標識や散水用のホースの管のようなものを見つけるが、映画のロケーションの中の撮影ミスを見つける趣があり面白い。見た目はどこかの裏山にある雑木林だが、実は公園であるという写真である。紅葉の樹々の背景には薄らと高層ビルの匂いを感じる。大草原に忽然と現われるロックペイントでも発見できそうな岩山は、足下の小石だろう。ここでも、フレームによる切り取りから起きる連想と経験知による錯視とも思える現象を見せることにより、写真表現とは見方の一方法であると暗に言っているのである。
「イン・アワ・ネイチャー」の趣旨には人間と自然との共生が語られる。“共生”という名詞は特に生物間の棲み分けに用いられ、互いに補いあうという意味合いである。哺乳類と昆虫の場合もあるだろう。鳥類と植物の場合もあるだろうと想像する。「Natureという言葉には、自然という意味と、人間の本性、本質という意味があります。ここに展示している写真は、ただ手付かずの自然ではなく、公園とか庭とか、人の手が入った自然なんです。人は自然を壊して街を造る一方で、どうしても自然と共生したいという意識があります。僕は10年くらい前から、人間と植物の共生みたいなことにすごく興味がありまして、これまで撮りためていた写真をここでまとめて展示することができたことは、すごく良かったと思っています」※ 会場内のギャラリートークからである。複製芸術としての写真ということから考れば、多様なメディアによるアーティストとしての側面も持つホンマタカシである。公園や庭という言葉から造園技術や庭などのデザイン上の問題が語られているのかと考えたが、その話しではない。※
すんなりとした表現の中で言われるのは、人は自然を壊して街を造るが、自然と共生したいという意識もあるという趣旨である。すなわち人間は、何らかの理由を携え、この地に生まれ落ちたのである。石を加工して斧を考え出し、野牛を殺し食し、その毛皮を纏い、火をおこすことを覚え、終いには植物を育てること考え出し、二本足でしっかりと立って狩りの生活から定住を試みたのである。自然は雄大であり憧れるが、人間の精神という力でもって自然の囲い込みを試みて創造力により快感情を得たのは確かだろう。※
一度は焦土と化した国土に、全てがつくり物の世界を感じながら戦後の若い世代は育って来たはずである。写真家ホンマタカシもまたそうであっただろう。イノセントな眼差しは、それが分かっているだろう。今日在ったものが、明日は無いかも知れない。つくっては壊し、つくっては壊すから。もうこのようなことはあって欲しくないと思っても、その日から我々は一から出直さなければならない。次々と時代は変化して行き、本物と思ったことが、そうではなく、次の本物へと時代の要請かのように目の前は変わって行く。いつの時代であれ、幼い目はめまぐるしい時代というものを親の背中といっしょに見ているものである。最初から在った自然は忘れ去られ、ひとの生活は益々作りものへと変わり、それは事実という限りに於いて幻想ではなくひとの世界であるということを新ためて覚えて行く瞬間でもある。写真表現による”らしさ”を捨てることの意味が、”自然との共生”という言葉を借りて作家に言わせているのだと思える。※
掲載の右最下段の写真はホンマタカシ「イン・アワ・ネイチャー」の作品ではない。こちらで用意したものである。意味があるとすればギャラリーのあるイムズビルの建物の脇にある「百草木の径」とネーミングされた草木をあしらった短い通り道を、二年程前に用あって通りがかった際に一眼レフもどきのSONYのデジタルカメラで撮ったものだ。「イン・アワ・ネイチャー」の写真のように、どこかの裏山の雑木林のように見えるのだが、実は、都心の瀟酒なビルの脇にある小径である。よく見れば前方の樹々の間にジュンク堂書店のあるビルの気配があり、左下には水道の散水栓のものか、または水道メーターを埋め込んだものと思われる鉄の蓋が見える。会場に設けられたインスタレーション「seeing itself」という作品名の四角い板張りの長い筒を通して双眼鏡で探し当てた結果なのかも知れない。
※ホンマタカシ ニュー・ドキュメンタリー ※スーザン・ソンタグ『反解釈』
※スーザン・ソンダク : スーザン・ソンタグ(Susan Sontag, 1933年1月16日 - 2004年12月28日)は、アメリカの著名な作家、エッセイスト、小説家、知識人、映画製作者、運動家。人権問題についての活発な著述と発言でその生涯を通じてオピニオンリーダーとして注目を浴びた。批評家としてベトナム戦争やイラク戦争に反対し、アメリカを代表するリベラル派の知識人として活躍した。2003年にドイツ出版協会の平和賞を受賞している。ソンタグの根本的なスタイルは固定観念を持つことを避けることにあった。ジェーン・フォンダのようにハノイには行ったものの、彼女と違い反戦運動をするわけではなく、「戦場を目の当たりにして感じた嫌悪感について書く」ことに専念した。一方で、晩年コソボ空爆への武力行使を支持した。2004年12月28日、骨髄異形成症候群の合併症から急性骨髄性白血病を併発し、ニューヨークで死去。71歳。彼女は30年間、進行性乳癌と子宮癌を患っていた。遺体はパリ・モンパルナスの共同墓地に埋葬された。
※三菱地所アルティアムによる今展のブログ記事より。
※作庭記 / 作庭記という平安時代に書かれた日本最古の庭園書には、庭園を通してみる古代日本人の自然への接し方や、自然への造形精神(デザイン感覚)を知る上で貴重な文献と考えられている。文献は数少ないが造園技術書として出版物があるようだ。(「様式とデザインの歴史」藤江正道著、1975年、東京デザイナー学院出版局より)
※インターメディアステーション・天神イムズの「百草木の径」:東側外周の植栽をヒートアイランド現象の対策への試みとして、地元の土(泥)を使い昔から日本にあった三和土床(たたき)を創り、できるだけ自然に近い里山を再現(2001年)。現在もたくさんの植物や雑草が自由にのびのびと育っている。イヌダテ、ゲンノショウコ、ホタルブクロ、キョウカノコ、イワナンテン、ヒメイズイ、カキドオシ、イカリソウ、トウバナ、ツリガネニンジン、エノコログサ、キキョウ、アザミ、メグスリノキ、ハクサンボクなど。
※主催:三菱地所、三菱地所アルティアム、西日本新聞社 後援 :福岡市、(財)福岡市文化芸術振興財団
※協力:ギャラリー360°、企画制作:ナンジョウアンドアソシエイツ
※画像:(C)Takashi Homma
三菱地所アルティアム
森秀信 個展 / BLUE
森秀信 1966年長崎市生まれ。1991年武蔵野美術大学大学院造形研究科修了、1998年現代美術センターCCA北九州リサーチプログラム修了、マリーナ・アブラモヴィッチのパフォーマンスに影響を受ける。現在北九州在住。主な展覧会として、1997年Mirror of Life(佐賀町bis/東京)、1998年マンドラゴラの実-現代美術が写す筑豊-(田川市美術館/福岡)、1999年アートの現場福岡Vol.6(福岡県立美術館)、2003年福北美術往来(福岡市美術館、北九州市立美術館)等がある。
会期:2009年11月7日~11月28日
会場:九州日仏学館5Fギャラリー
お問い合わせ:092-712-0904(九州日仏学館)
満たされない触るということへの思いもかけない渇望の表現であるかと思われる。時代は満たされているようでそうでもなさそうである。掲載の画像が現すように左に無言のどちらかといえば紫に近い青の画像が映写され、右に現れては消える壁をなぞるような手がループされる。今回の作品は、デレク・ジャーマンの遺作と言われる青という色を「宇宙の神秘的なエネルギーに通じる、最も非物質的で抽象的な色」としたフランスのアーティスト、イヴ・クラインへのオマージュとも呼ばれた、映画『BLUE』(1993年)をモチーフにしたものだそうである。展示されるビデオ・インスタレーションは、空の写真から構成された2009年の新作である。
青色は聡明で初々しくスマートで、それが故に正しくブルーな色である。作品の左の青の画像には瞬時実写の風景が映し出される。つまり、時には、現空間の青い空を見たいものである。何故なら、いくら平常心を装い、あの青空に匹敵する策略を目論んだとしても無駄だからである。作家は白旗を揚げたのである。あの青空の下、あの空間にどれほどにお世話になったことだろうか。夕闇が来るまで遊び「夕飯ですよ!」と母親に言われ帰り着く時の、あの青空は朱に染まっていた。戦後間もないころのことである。ぼくの家に来ないかと誘った近所の子の朽ち果てた家には屋根が無かった。雨が降った後であっただろう。真っ青の空がきれいで悲しかったという思いは未だに消えない。
何だか森秀信のこの作品には、BLUEという色に翻弄された、いや見透かされた作家自身があるように思う。
「かたくなな乳房をそっと撫でまわす、助けを求めるような手のひら」(「ベッドサイド」林あまり著、1998年、新潮社刊)この、生々しい女の文章がとても似合う森秀信の個展であった。※(写真は日仏学館提供)
※デレク・ジャーマン:デレク・ジャーマン(Derek Jarman、1942年1月31日 - 1994年2月19日)は、イギリス・ミドルセックス州出身の映画監督、舞台デザイナー、作家。ロンドン大学キングス・カレッジで美術などを学んだ後、映画監督ケン・ラッセルのもとで美術スタッフを勤める。主に、同性愛や荒廃した近未来イメージ、耽美性などをテーマにした作品が多い。生前、自らがゲイであることを公表し、1986年にHIVへの感染が判明。1994年にエイズにより亡くなった。死の前年に制作された『BLUE ブルー』は、自らを蝕んだ病エイズをテーマにした作品である。※『BLUE ブルー』(Derek Jarman's Blue)は、映画監督デレク・ジャーマンの遺作となった1993年のイギリス映画。製作時、エイズによる合併症の末期状態にあったジャーマンは、ほぼ盲目であった。ジャーマンの映画作家としての最後のメッセージとなった本作品は、画面全体を覆う青の色彩をスクリーンに投影したのみの作品である。※イヴ・クライン:イヴ・クライン(Yves Klein, 1928年4月28日 - 1962年6月6日)は、単色の作品を制作するモノクロニズムを代表するフランスの画家。アーティストとしての活動は晩年のごく数年である。特に「青」を宇宙の神秘的なエネルギーに通じる最も非物質的で抽象的な色だとして重用し、自ら理想的な染料を開発した。※オマージュ:オマージュ(仏:hommage)は、芸術や文学においては、尊敬する作家や作品に影響を受けて、似たような作品を創作する事。また作品のモチーフを過去作品に求めることも指す。しばしば「リスペクト」(尊敬、敬意)と同義に用いられる。※林あまり:林 あまり(はやし あまり、女性、1963年1月10日 - )は、日本の歌人、エッセイスト、作詞家である。本名、真理子。筆名は、すでに同名の小説家林真理子がいたため、余りという意味。東京都渋谷区生まれ。恵泉女学園高等学校を経て、成蹊大学文学部日本文学科卒業。キリスト教徒。初め前田透主宰の結社「詩歌」にて学び、解散まで所属。のちに中山明、井辻朱美らともに歌人集団 「かばん」の創設に参加した。作品は口語体を生かし、性描写など過激な作品を発表し、歌壇外の読者からも熱烈な支持を得る。
Hidenobu Mori Art Works
九州日仏学館
Copywriter 1987 / そのヒトは雨の木のことを話してくれた。
「いのちをゆっくり泳ぐ人」
紅茶とミルクが、ゆっくりと混じり合っていくと、私の朝がはじまる。きょうは、どんな一日になるだろう。どんな眼差しに、どんな微笑みに、どんな呟きに、どんな仕草に、出会うだろう。私のいのちは、なにを感じ、なにに震えるだろう。私はスプーンで紅茶をかきまぜる。私は、とてもぼんやりとかきまぜている。そうやって、裸のこころで一日の時の流れに滑りこんでいくのだ。できるだけゆっくりと、いのちを泳いでみよう。日々の泡の中を、できるだけゆっくりと。私は、泳ぐ人だ。
「風に。光に。抱かれていた。」
突然、祭りの中にいた。小さな花を編んだ髪飾りをつけて、私は行列の人の渦の中にいた。笛が鳴り、人々は足踏みをするようにして踊っている。私は、みんなから祝福されて、手拍子で迎えられる。空が青くて、風が刺すように冷たい、どこか高い峰々に抱かれた場所。牛や羊の、大地の乾いた匂い。香料の匂いも、たちこめている。行ったこともない、見たこともない風景なのに、もう前から知っているようになつかしい。いつか旅をして訪れる風景を、思い出のように抱いて、胸はこんなにときめいている。
「氷のように、燃えている。」
そのヒトは、雨の木のことを話してくれた。雨の木。それは、空にむかって繁った巨きな樹。雨が降ると、葉のすみずみに滴をためて、忘れた頃に降り注ぐ。風にザワザワと音を立てながら、まるで神様の贈りもののように。いつか、見てみたい。いつか、その樹の下で、雨にうたれてみたい。そしたら、きっと、分かるだろう。世界は滅びたりしないって。いえ、もし滅びる運命だとしても、なにかしなければいけないことがあるって。そんなことを考えていたら、頬が熱くなってきた。風は、とても冷たいのに。
「なにもかも、ただ一枚の布。」
知ってる?宇宙のどこかで、星がひとつ爆発して消えていくとき、地球の上の人間は、胸騒ぎがするってこと。美しいものが輝きを失うのを見るのは、悲しい。どんなものでも、いなくなってしまうと、胸に穴があく。それはただの感傷ではなくて、宇宙の摂理みたいなものだと思う。そう、この部屋の外には、たくさんの人がいて、広々とした世界がある。樹があって、鳥がいて、空があって、海がひろがっている。なにもかもが、一枚の布のように織られているのだ。
「灰の時間に、したくないから。」
別れ際に、胸がしめつけられるように苦しかった。男とか女とか、そういうのじゃなくて。このまま二度と逢えなかったらどうしよう。そう思ったら叫びたくなった。なにか言わなくちゃ、とコトバを探した。背中がすこしずつ小さくなっていく。舗道にたちすくんで、泣いた。どうして、みんなは別れるときに、平気でいられるんだろう。感じやすい心臓を、犀の皮のように堅くこわばらせて、さよならを言うんだろうか。さよならを言うことは、少しの間、死ぬことだ。とても、つらいけれど。
「目を閉じれば、引力が。」
ダレかが、私をみつめている。背中をむけていても、ちゃんと感じる。横をむいていても、分かる。それは、視線のエネルギーだろうか。でも、忙しくしていたりすると、そんな感覚が鈍くなってくる。いけないな、って思う。風にそよぐ一本の草のようにしていたい。ささやかな音に耳を立てる鹿でありたい。いつでも、どんなときでも、眼に見えないものに、目をみはりたい。いのちのない物質だって、引力でつながっているんだもの。生きていることを、もっともっと感じていたい。
「何億光年もはるかに、少年。」
氷河の下に、マンモスが眠っている。そう想うだけで、彼のことが愛しくなってくる。一心不乱になっているときの、あの唇。あの指先。あの仕草。英雄でもない、天才でもない、とても平凡な男だけれど。石のように黙りこんだ口は、いつか夢を語ってくれるだろうか。でも。きっと、目をそらすに違いない。もどかしそうに、胸に大きな翼をたたみこんでる。男たち、何億光年も、ずっとずっと少年でいてほしい。
「荒野に、白く翻るものよ。」
少女のころだった。父の膝の上、映画館の闇の中で、じっと息を殺していた。スクリーンの上には、背の高い男が馬に乗って走り去っていく光景が写しだされていた。でも、私がみつめていたのは、それを見送る女性の手に握られた白いハンカチ。慎ましく、でも、とても、情熱的に。白いハンカチは、いつまでも風に翻っていた。私、エプロンをするときに、いつも思い出す。荒野を旅する男がいて、じっと帰りを待つ女がいて。遠い光景なのに、父の匂いと混じりあって、胸を切なくする。
「時の扉むこうに。きっと。」
きょうが滅びようとするとき、あしたが生まれて息づきはじめる。私が眠りにつくとき、一粒の種子が私の中にまかれて、育ちはじめる。いのちは、いのちを抱いているのだ。きっと、そうだ。芽を吹き、つぼみとなり、いつか花をひらく。そのいのちに、水を、光を、栄養を、なによりも大きな愛を注いであげたい。耕し、丹精こめて、育ててみたい。ためらいながら、時の扉のむこうへ歩いていこう。いつか、重力の罠から身をすりぬけ、私は翼のようなものを、手にするかも知れない。いつか。
以上は、詩集からの転載ではない。商業用のカタログにあった、いわゆるコピーライターによる商業文である。だから、匿名である。たくさんのことばを駆使してごはんを食べている職業人である。このカタログは商用で自然と残っていたのだが、1987年の印刷物だから23年は経っている。コピーライターと言えば、糸井重里である。そのような時代であったと思う。特徴を言えば、印刷上での印字の文字間の狭さである。触れんばかりで読み難いと言われた。今と違って印刷物にビジュアルを求めたアナログの時代である。商業用のカタログではあるが、まるでプライベートな詩集に於けるような振る舞いも許されたのだろう。バブル経済と言われる時期である。(出所 / BELL SUZUYA CO.,LTD. 1987.)
※糸井 重里(いとい しげさと、1948年11月10日 - )は、日本のコピーライター、エッセイスト、タレント、作詞家。株式会社東京糸井重里事務所代表取締役社長。フィールズ株式会社社外取締役。妻は女優の樋口可南子。群馬県前橋市出身。糸井の生誕後に両親はすぐに離婚し、司法書士であった父親の元に引き取られ祖母に育てられる。その後、実母と再会したのは1981年だという。法政大学文学部日本文学科に入学後すぐに学生運動に身を投じるが、内部抗争の陰険さが嫌になり1年半で退学。寺山修司、唐十郎、横尾忠則らが当時のヒーローだった。
※バブル経済(bubble economy)とは、不動産や株式をはじめとした時価資産の資産価格が投機によって高騰し、資産価格高騰が誘引となってさらなる投機を引き寄せている状態の経済のことである。日本では、1973年12月以降の安定成長を経て、1985年9月、プラザ合意がバブル景気の直接の引き金となった。日本経済は空前の好景気を迎え、株式市場も日経平均株価30,000円の大台を超えた。その後の失われた20年は、日本経済への打撃をそのまま示すものであった。
パリ 静けさの響き Paris - vibrations du silence
アンドリア・レキック写真展

Selon moi, le visage est l'objet suprême de la photographie et des autres arts. Parce que nous sommes bien plus complexes qu'une simple représentation photographique, j'essaie de capturer un fragment de cette complexité et de le placer dans un contexte plus large en utilisant différents symboles. Herzog disait que notre civilisation est aussi mince qu'une couche de glace à la surface d'un océan de chaos. Aussi, mon but est d'aller au-delà de celle-ci, de briser cette pellicule pour sonder au plus près la nature humaine. Je veux me confronter au chaos, suggérer ce qui est et qui, je crois, doit être changé. C'est ma responsabilité de photographe mais aussi d'être humain.
Andrija Lekic est née à Belgrade (Serbie) en 1976. A l'âge de six ans sa famille s'installe sur la côte du Monténégro. Il développe son goût pour la photographie dès l'adolescence en montrant un intérêt particulier pour le style documentaire spécifiquement centré sur les gens tout en essayant de retranscrire l'esprit de notre époque.
Après une maîtrise en marketing à l'université de Belgrade, il séjourne à Paris. Plus tard, il s'établit à Londres ou il étudie la photographie au Kesington et Chelsea College. Après quatre années passées sur place, il rentre sur Paris où il vit et travail désormais.
私の考えでは、人間の顔は、写真はもとより様々な芸術の分野における最高の被写体であり、限りなく複雑で捉え難いオブジェであると思う。私は、その複雑さ中にも僅かなかけらを捉え、別の象徴・サインとして置換えて表現することを試みる。映画監督ヘルツォーク曰く、私達の文明は、大洋に浮かぶ薄氷のように危うい、と。私の写真表現の照準は、その薄氷を破り、そのカオスの混沌とした大洋の奥深く潜り探るかのように、写真を通してこの人間の本質に迫ることである。私は、私の希望や私が大切と思うことに報いるために、カオスと向き合い、自分が何者であるかを見つめ、自身を変えていくことが写真家として、また人間としての責任だと思っている。※
アンドリア・レキックは、1976年セルビアのベオグラード生まれ。 6歳の時に彼の家族はモンテネグロに移住。思春期から現代の時代精神を映し出す人々に焦点を当てたドキュメンタリー写真に興味を持つ。ベオグラード大学で、マーケティング修士号を取得後、パリに移住。その後、ケンジントン、チェルシー大学で写真を学び、現在パリ在住。
会期:2011年 6月18日(土)~7月2日(土)
会場:九州日仏学館5Fギャラリー
お問い合わせ:九州日仏学館(Tel 092-712-0904)
アンドリア・レキックは、10代の頃からドキュメンタリー写真に興味を持つようになる。彼の作品をランダムに並べてみるが、それぞれが映画のワンシーンのように連続して行く余韻を感じさせる。我々はこれほどまでに風景を凝視しているわけではないのだから、フレームを外された途端に普段の退屈さが漲ることになるだろう。左手の甲を大きく振りかざした白髪の高齢の女性と思われる人物と背後から捉えられた眼鏡の男の横顔。言い争っているような、相手を激しく叱責しているかのような空気が漂う。この空気には、アンドリア・レキックの眼差しが宿っているのであり、常に現実の様相の中にただならぬ気配と幻想を見ようとする彼の読みを思う。「パリの静けさの響き」はパリの沈黙の裏側と読み替えることもこともできる。ある思わぬ出来事は、素知らぬ顔で沈黙の内に企てられているものである。
この写真展に向けてのアンドリア・レキックのメッセージには、パリ市のある地区の撮影の趣旨が述べられている。パリ10区のサンマルタン(Saint Martin)のOutsiderを、この冬から撮り続けた。彼らは必死に生きていると、アンドリア・レキックは言う。Outsiderをホームレスと言ったところでパリ10区のサンマルタンを理解できるわけでもない。彼のバイオグラフィーに、人間の顔は、写真はもとより様々な芸術の分野における最高の被写体であり、限りなく複雑で捉え難いオブジェであると思うのです。とあるのだが、全体主義崩壊の後の民族間の悲惨な争いや幾多の国家分裂の東欧の歴史についその言葉は重なってしまう。※
映画監督ヴェルナー・ヘルツォークの名が出てくる。引用からすれば、西ドイツ生まれのニュー・ジャーマン・シネマの代表的監督は薄氷のように危うい文明を生きて来たのだろう。クロアチアの母とドイツ人の父との間に生まれる。アンドリア・レキックのベオグラードは目と鼻の先である。“ベルリンの壁の落書き”とアンドリア・レキックのパリ10区のサンマルタンの落書きが同じものに見えてくる。ヘルツォークもまた20代の青年であった1960年前後のドイツ映画に見るベルリンの壁にまつわる重苦しい数本と、思い浮かぶドイツ系女優であるクリスティーネ・カウフマンの若々しく美しいが故にせつない表情とが何かを物語ってくれる。また、若き頃のヴェルナー・ヘルツォークとシェア仲間であったというポーランド生まれでドイツで活躍した俳優クラウス・キンスキーが、ロシア革命直後を描いた映画の中で、あの広い額に青筋を立てて皮肉たっぷりに喚き散らす無政府主義者を演じていたのも、まんざら無関係ではなかろうと思えてくる。全てはどこかで通じているものである。フランスの若者は自我意識の塊のようであるとは、誰かから聞いたが、アンドリア・レキックも問題意識を持ってことに当たる青年のようである。35才である。彼の前に広がる道は否が応でも掘り続けられることだろう。※
ハッセルブラッドだったかを無造作に紙袋に突っ込み、薄汚れた恰好をして物騒な街を取材に出掛けるロンドンを舞台にした若いカメラマンが主役の冴えた映画があった。若い頃のジェーン・バーキンや若い頃の ヴァネッサ・レッドグレイヴが出演している。曲者の匂いは魅力的である。若者の前には常に理に合わぬものが立ち塞がる。※
モード雑誌の一枚かのような趣もある。掲載の一番上の作品である。白壁に浮き上がるように舞うバレーダンサーの白い肌、暗闇に光る朱や青や赤の室内灯らしきものは、これから起きるであろう幻惑を物語るお膳立てであり、”モーヌの激しいロマン”は森の中の一夜から始まる。
実り多き放浪と冒険でありますように。※
※Andrija Lekic Biographyから。日仏学館の訳文に多少の拙文を加えた。
※ユーゴスラビア国家分裂の行方/ 旧ユーゴスラビアの首都ベオグラード市内を貫流するドナウ川の水上交通は過去、いくたび遮断されたか知れない。多くの場合、岸辺に寄り添う多くの民族のいがみ合いが原因であった。全体主義のタガがはずれた東欧で、この国は国家分裂第一号となっただけでなく、「複雑分裂」「散乱分裂」の悲劇を招いている。(「民族世界地図」浅井信男著、1993年、新潮社刊)
※映画監督ヴェルナー・ヘルツォーク(Werner Herzog、本名:Werner Stipetić、1942年9月5日 - )/ ドイツの映画監督・脚本家・オペラ監督。ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー、ヴィム・ヴェンダースと並んでニュー・ジャーマン・シネマの代表的監督である。怪優・クラウス・キンスキーを起用した作品でも有名である。
※クラウス・キンスキー(Klaus Kinski、本名:Nikolaus Karl Günther Nakszyński、1926年10月18日-1991年11月23日)/ ポーランド生まれ。ヴェルナー・ヘルツォーク監督の『アギーレ/神の怒り』が有名である。「長女のポーラ・キンスキー、次女のナスターシャ・キンスキー、長男のニコライ・キンスキーはともに俳優となった。無政府主義者の役はロシアの作家、ボリス・パステルナークによる同名の小説を原作とする映画「ドクトルジバゴ」に出演したときのもの。1965年、米伊合作。デヴィッド・リーン監督。
※無政府主義 / アナキズムまたはアナーキズム (英語: Anarchism) は、政治思想の1つであり、国家や権威の存在を望ましくない、必要でない、有害であると考える政治思想。
※映画「欲望」(Blow-Up)/ 1960年代中盤のロンドンを舞台に、人気カメラマンの主人公が撮った、ある写真にまつわる奇妙な出来事を描く。「スウィンギング・ロンドン」と言われた、当時のイギリスの若者のムーブメントを織り交ぜつつ、サスペンスかつ不条理な独特の世界観となっている。1967年のカンヌ国際映画祭にてパルム・ドールを受賞。1966年制作の英・伊合作映画。アルゼンチンの作家、フリオ・コルタサルの小説『悪魔の涎』を下敷きに、ミケランジェロ・アントニオーニが脚本を書いた。アントニオーニ初の英語作品であった。
※ハッセルブラッド (Viktor Hasselblad Co. )/ スウェーデンのカメラメーカー。大型カメラ全盛の時代に、世界で初めて携帯に便利なレンズ交換型6×6cm判一眼レフカメラを発表した。上記映画の頃に発売されたものだろう。
※モーヌは Le Grand Meaulnes 仏小説「モーヌの大将」の主人公の名。小説家 アラン・フルニエ Alain Fourner(1886--1914) 作。本名アンリ・フルニエ。中仏シェール県生まれ。1913年「N.R.F」誌に発表した「モーヌの大将」で一躍名声を得る。翌年、大戦初期に戦死する。フランスの田園の夢幻化と少年の夢想の世界の展開が、その後の多くの作家に影響を与えた。(「立体・フランス文学」篠沢秀夫著、1970年、朝日出版社刊)
九州日仏学館
www.andrijalekic.com






